掌の遠国(てのひらのえんごく)3「こぼれ落ちる花びら」


















(こんな色の菊の花びらが教室の木の床にたくさん散らばっていました。)

◆こぼれ落ちる花びら◆

(これは昭和40~42年頃のことです。 
1965~1967年頃と云えば分かりやすいでしょうか。) 

小学校の給食が嫌いだった。 
コッペパンや食パンはいいにしても 
脱脂粉乳の牛乳は一気飲みで流し込むしかなかった。 

あと全校3000人分の児童の分を 
バイキンマンUFOみたいな巨大鍋で 
ボートのオールでかき混ぜて作る 
くちゃくちゃの変な匂いのおかずが嫌いだった。 

1年2年の頃、おかずを残すと5・6時間目が終わり 
掃除が始まってもまだ食べるまで教室に残される。 
Tという、ばあちゃん教諭が帰る時刻まで。 

もう一人いつもおかずの食べられない女の子がいた。 
色白のおとなしい女の子で、話したことは無かったが 
理不尽ないじめに対する悲しみと怒りは共有してたと思う。 

あの頃 たった一人の男の友達がいた。 
僕も彼も妄想夢想癖が同一で 
怪獣やプラモデルが大好きだった。 

今思うと可笑しいけれど、二人は飛行機や! 
ということになっており 
僕らは双発のプロペラの一機ずつで 

二人で肩を組み お昼休みの校庭を 
ゆっくりとパトロールするのが楽しみだった。 
「あ、へんなぶったいをはっけん」 
「りょうかい せっきーん。」とか云いながら。 

と、いうことは そういう日は難儀な給食を 
こっそり便所に捨てるとか、机に押し込むとかして 
なんとかやり過ごした昼休みだったのだろう。 

その彼は「僕はしんぞうがわるいねん」 
「3ねんせいになったらな、しゅじゅつすんねん。」 
と僕にいつも云っていた。 

「3ねんなんて、ものすごーさきのことやなあ」 
「でもな ぼくしゅじゅつて、なんかこわいねん。」 
「だいじょうぶなんちゃう~?」 

二人はそんな事も語らいながら 
肩を組んだのと別の片手の主翼をのばして 
「ぶーううん」といいながら校庭をパトロールし続けた。 

3年になって担任が少し若い30代の女の先生に代わり 
給食を残しても、お小言だけに成りつつ在る頃 
クラスの変わったあの飛行機のかたっぽ友達とは遊ばなくなった。 

校舎は1・2年の木造の分校から鉄筋の新校舎に移り 
友達も様がわり、でも相変わらずプラモデルと怪獣が 
おとこのきずなの根本の日々だった。 

そんなある日 彼が死んだという知らせを聞いた。 
お葬式は新校舎の彼の教室だという。 
僕は同じ組ではなかったので参列出来なかったんだと思う。 

放課後の教室には祭壇が飾られ 
黄色い菊の花があふれるほど飾られ 
花びらがいっぱい床にこぼれ落ちていた。 

ひとり立ち尽くしていた僕に 
黒い服を着たお母さんが痛々しい笑みを浮かべて 
「しのはらくんやね 仲良くしてくれてありがとうね。」 
と云った。 
お母さんの顔は今も覚えている。 

でもあの友達の顔も 
名前も、もう思い出せない。 
僕の幼い心のフラスコは悲しいほど小さかった。 

あの床にこぼれ落ちるほどの 
たくさんの黄色い菊の花びらは 
僕が始めて見た 人の死だった。 
僕は意味が分からず そこから立ち去るしかなかった。 

やがて高学年になると 
自分も給食が嫌いな男の担任の先生と 
愉快な友人達のおかげで学校は楽しくなった。 

1・2年の頃、ばあちゃん教諭に 
「こんなに給食を残す子は、大人になっても 
なんにも食べらへん人間になるんやで!」 
と云われたけど、今は何だって食べられる。 

(脱脂粉乳は絶対買えへんけどね。 
文部科学省の大臣 あれ飲んでみい~。) 

ときおり朝 
「しのはらくんはおとなになれてよかったなあ」 
とあの友達に云われる気がする。 

僕は何処へでも行き、好きな唄を唄い 
君の分の世界も生きようと思う。 

どんなにみにくいことがあったとしても 
この世界は必ず美しい。 


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コメント: 1
  • #1

    drmiki100 (日曜日, 01 3月 2015 14:44)

    この文章は以前ミクシイに日記として書いた物ですが、これを読んだ同級生の方からメールがあり、その友人は「石橋君」だった事が分かりました。
    小学校低学年にとっても「石」は簡単な漢字ですが、「橋」は難しくそれで忘れてしまったんやろか・・と情けなく思うのですが、オバケのQ太郎の絵を赤いカーボン紙で写して描いてあった彼からの年賀状には、確かに「石橋」とあった気がします。でも下の名前はいまだに思い出せません・・。