掌の遠国(てのひらのえんごく)7「父の面影」


























(父・廣祐と)

◆父の面影◆

夏の真夜中に赤い煙草の火が点っている。 

父は居間で一人の晩酌を終えてから 
母と兄と僕が川の字で眠る八畳の間の 
僕の隣りの布団に横たわるのが常だった。 

今も僕は父に似て宵っ張りだが 
大元の父も寝つきは悪く、寝煙草の癖があった。 

兄がまだ小学校の低学年 
五つ下の僕は五歳にも満たなかっただろう。 
蚊取り線香が煙り 
扇風機は風を送りながら首を振り 
母と兄は寝息を立てていた。 

「三樹ちゃん寝てないんか?」 
「うん…」 
「しゃあないなあ。なんか話ししたろか。」 
「うん。」 

「あれはお父ちゃんがまだ兵隊の頃やなあ。 
お父ちゃんは友達の兵隊さんと二人 
見渡す限りのひろーい草原の一本道を歩いてたんや。 
月の明るい、風のある夜やったなあ。 
ほんならな、前の方から長い髪の女の人が歩いて来たんや。」 

僕は寝ながら父を見上げ 
くわえ煙草で寝転んだ父は、天井を見ながら話していた。 
父の呼吸に合わせて、闇の中で 
赤い煙草の火が明るくなったり 
暗くなったりした。 

「お父ちゃんも友達も、なんやらゾーっとしたんや。 
それでも2人とも固唾を飲んで 
そのまま一本道を歩いて行った。 
やがてお父ちゃんらと 
その女の人は道を擦れ違ったんや。」 

「それでどないしたん?」 
僕の声は恐さにかすれてたのではないだろうか。 
それにくらべ父の声は低く太かった。 

「あんまり変な感じがすると 
言葉が出えへんもんやねんなあ。 
お父ちゃんと友達はそのまましばらく歩いたんや。」 

「ほんでな、まるで申し合わせたように 
お父ちゃんと友達は立ち止まって振り返ってしもたんや。 
そしたらな、向こうの女の人も 
立ち止まってこっを振り返ったんやで。」 

「その時の女の人の顔が真っ白でなあ 
お父ちゃんらまたゾーっとしてなあ。」 

「ゆうれいやったん?」 
「そんなことはないと思うんやけどな 
あとで友達と言うたんは 
あの女の人もほんまは、恐かったやろなあ… 
いうことやねん。」 

父は煙草を消し 
あるいはもう一本喫ったのかもしれないが 
僕はそれから固く目を閉じて 
眠りに落ちたのだと思う。 

父が低い声で話した夜の光景は 
幼児だった僕の心に 
月灯りの優しい色合いで描かれた 
絵本のような怪談として 
心に深く長く残ることとなった。 

そして明くる朝は、蝉がやかましく哭く 
真夏の一日に間違いなかった。 

それは夏休みの宿題や 
木曽福島への楽しい旅行や 
どうしても枯らしてしまう 
物干しのヒョウタンの観察日記に悩んだりする 
あの懐かしい、永遠の夏休みだった。