掌の遠国(えんごく)16 「早春の頃」

「早春の頃」

 

昨日やっているギター教室で生徒さんに釘煮をいただいた。
なんでも亡くなったお義母さんが毎年作られたそうで
今も引き継いで作ってご近所に配られてるそうです。

それで僕もご相伴にあずかれたのですが

 

帰宅後、晩酌の友に食べたらその美味しいこと。
生姜が良く効いて最高でした。
今晩はお茶漬けにせな!と思います。

 

イカナゴの釘煮は主に兵庫地方の早春の名物ですが
大阪の春の思い出はシラスのポン酢和え。
母はほうれん草と和えてかつお節もかけたりしてたな。

 

「もおシラスでてるでえ〜」と楽しそうな母と
小学生の僕は、春が来てメタン香る真っ黒な平野川沿いを
センダイ市場までのんびり歩いたものでした。

 

近所の公設市場でも買ったはずなのですが
公設市場の休みの日は少し遠いセンダイ市場へ行きました。
シラスと云えば何故か春の平野川沿いの思い出ばかり蘇る。

 

そのシラスも暖かくなるに連れ段々大きく成って来るのです。
それが終わると苺が出回り、やがて夏には西瓜・・と
昭和40年代の日々は季節の旬のものを楽しみ流れて行きました。

 

人生には苦しい事も多いけど、楽しみも多い。
人はいつも行っていることに、自然と喜びを感じるんでしょうね。

 

生涯に、たくさんあれを作った、食べた、人に分け与えた・・
それは他の人間にも追憶になり、絡み合い
それぞれの人の一生の厚みを積み上げていくんやなと
生姜のよく効いた釘煮を食べて飲みながら
酔って行く頭でぼんやり思ったりしたのでした。

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掌の遠国(えんごく)15「今夜はビフテキ!」

「今夜はビフテキ!」

 

 (↑天五・十八番の毎月18日のワンコイン定食。 
サーロイン・ステーキがなんと500円です!。) 

昨夜は久々にステーキを食べて 
帰りの電車の中で昔を思い出してしまった。 

子供の頃、ビフテキなんてものは多分 
五年に一回もあれば良い御馳走だった。(^^;) 
母の作るハンバーグは大好物で季節に一回はあったけど 
ビフテキは家で食べられる頻度が極端に少なかった。 

父の趣味は写真と8ミリフィルムでの動画撮影だったが 
その8ミリフィルムで傑作なのがある。 
従兄弟の洋子ちゃんが我が家に遊びに来るので今夜はビフテキ! 
という夕方を撮影したものだ。 

後年、そのフィルムを発見してまだ動く映写機で 
一人上映してみたときは涙こぼれそうだった。 
今夜はビフテキと云うのでウキウキ嬉しそうな我が家。 

僕は丸刈り眼鏡の中学生。兄は長髪で眼鏡の大学生。 
眼鏡の薬剤師の父は僕にシングルエイトの撮影機を任せ 
自ら大根おろしをすっているところを撮らせている。 
やはり眼鏡の母は恥ずかしそうに口をすぼめ笑っている。 

そして従兄弟もかこみ皆でビフテキをおかずにご飯食べながら 
TVにはプロレス中継。ジャイアント馬場が16文キック。 

このフィルムをビデオにおろして兄や母にも見せた。 
みんな笑いながら、幸福だった昔を思い出してた。 
ビフテキをみんなで食べた夜をあとから観た 
その事をまた昨日、電車の中で思い出した。 

兄は還暦を過ぎ、今は割と肉食が多い。 
父は僕が18の時に脳溢血で逝ってしまい 
母ももう父の傍に行って四年になろうとしている。 
従兄弟の洋子ちゃんも夫に先立たれ 
今は老境にさしかかり元気で趣味のカラオケ三昧。 

 

そして貧乏一人暮らしの僕は、ビフテキというと 
あのフィルムに無音で写っていた遥か昔を思い出す。 

家族で揃って食事をする。 
普段の何気ない食事、たまのごちそう。 
それが人間の普通の幸福でかけがいのないものと痛感する。 

あれは父の最高傑作やったなあ。 
「今夜はビフテキ!」 
僕の心の中で昨夜も上映されたのでした。 

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掌の遠国(てのひらのえんごく) 14「『フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト』が出来た夜」

「『フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト』が出来た夜」

 

1989年の8月の終わり頃 

バイト先のある北浜地下の書店で立ち読みをしていた僕は 

情報誌「エルマガジン」のライブ欄を見て、あれれとつぶやいた。 

 

「Bハウス:9/1 ドクトルミキ」とある。 

その頃、毎月一回 僕はベースのY君と組んで 

「ドクトルミキバンド」名義でライブをやっていたが 

9月の出演はもっと後のはずだった。 

 

何かの間違いと思い、あわててBハウスのマスター Tさんに電話すると 

「ごめんごめん、急に穴があいちゃってミキくんをいれたんやけど、 

連絡するの忘れちゃってたんだよ~ 何とか頼むね~」とのこと。 

 

自分は出られるが、組んでいるY君に聞いてみると 

その日は無理だった。ひさしぶりのソロか。 

まあええわ。ちょろいもんや。 

  

後少しで31才になるその頃の僕は 

自信過剰な割には、へこんでばかりいたのだが 

性懲りも無くまた思うのだった。 

「腕を見せたるわ~。!」 

 

さて9/1。いつもの出演日は第2金曜だったか 

第3金曜だったのだかは忘れたが

代演日の1日が金曜だったかまでは、実は覚えていない。 

ただいつものように雨が降っていた。 

(後記:調べたらやはり金曜だった。) 

 

当時、工場の煙突が撒いた「煤煙」が、週末金曜あたりに 

決まって雨を降らすんや、と誰かが云っていた。 

それでレギュラー出演日は雨ばっかりだったような記憶があるが 

実際は心が雨だったと云う方が合っているだろう。 

 

・・ウケなかった。お客さんは多いのだが 

いつもの顔ぶれではなく、この唄ならどや 

ほならこれは、とゆーのがことごとくはずれるのである。  

 

しまいにはパラパラの拍手までがとだえてきて  

ついにある曲で、ジャラーンとギターのエンディングの後 

しーんと静寂。 

人生初のライブ拍手なしを経験した。 

  

(・・出始めの頃、お客さんの喧噪うずまく中の演奏では 

まるで戦っているような反応があった。 

僕らの演奏が終わると、まばらな拍手とともに 

お客さんの声も休憩するように静かになる。 

 

また僕らが演奏を元気よく始めるとお客さんも 

その音に負けじと話声のボルテージを上げる。 

 

Bハウスは基本的に、うまくて手ごろな値段の料理が売りの酒場だった。 

お客さんも「まあ良けりゃ聞いたろ。あかなんだら、聞けへんで~」 

という感じだったのである 

  

ライブが終わり、貰ったギャラを握りしめYくんと 

桃谷の商店街を歩く頃にはもう頭は真っ白。 

駅前のたしか谷中屋という飲み屋でジョッキを二人握りしめ 

「どうしたらもっと聞いてもらえるんやろ~」とうつむくばかり。 

 

でも根が阿呆やから、あれは何かの間違い、次こそ大喝采や~と 

二人また桃谷に出撃する、そんな繰り替えしだったのだ。 

  

しかし1~2年もすると、聞いてくれるお客さんがぼつぼつ現れ 

「ジャニス、もう忘れよう」とか名物曲もできて来て 

自信を持ち始めていた矢先だった。) 

 

  

で、最悪に受けなかった9/1のソロライブ。 

僕はヘコミ、店の中からは、ことさらコメントもなく 

いつも励ましてくれる厨房の高仲くん(彼も唄ってた)も黙り込み  

僕はただギャラをもらい、頭を下げ、すごすごと店を出た。 

 

手にしてたギターD28は、近々後輩に売ることが決まってて 

最後の使用だったのに、なんちゅう結果。  

ギターケースがやたら重い。 

 

パチンコ屋の店先のシャッターの前の 

歩行者の雨靴で濡れそぼった鋪道に 酔いどれじいさんが 

一人座り込みしゃがれた声で 

「ずいばせん・・ずいばせん」とくりかえしつぶやいていた。 

 

「誰にあやまっとんねん」と不機嫌につぶやいた僕は 

まるで自分の姿を見てるようでたまらず 

足早に桃谷駅の改札を通った。 

 

飲み屋に向かう気もおこらなかった。 

早く寝床で傷を舐め、眠ってしまいたかったのである。 

けど、家に帰っても悔しさで眠れなかった。 

 

・・ところが明け方 ふと本をめくっていて気になる言葉を見つけた。 

大好きな詩人、鮎川信夫さんの対談集の中にあった言葉。 

「大体辛いなんてことは、たいてい気のせいなんだよ。」 

 

僕は明かりをつけ歌詞を書き始めた。すぐに最後まで書けた。 

それが「フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト」だった。 

 

「フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト」

詞/曲 ドクトルミキ (1989  9/2)

 

夢の終わりが来たのかな お前もヤキが回ったと

ついてない事ばかりさ このギターも人手に渡る

 

けれど俺は知っている みんな気のせいだってこと

あんたが辛いとしたら それはたいてい気のせいだって

 

フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト

 灯りの下 小さな店

 俺は唄うけど 誰も聞いてない

 唄が終わっても 拍手も無い

 けれどBaby どこかで誰かが聞いててくれるもの

 床が傾いているよ 滑り落ちないで Baby

 

帰り道の濡れた舗道で 酔いどれ爺さん座り込み

道行く人みんなに 何か謝っている

 

けれど俺は知っている みんな気のせいだってこと

あんたが辛いとしたら それはたいてい気のせいだって

 

フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト

 灯りの下 小さな店

 俺は唄うけど 誰も聞いてない

 唄が終わっても 拍手も無い

 けれどBaby どこかで誰かが聞いててくれるもの

 

 床が傾いているよ 滑り落ちないで Baby

 

床が傾いているよ 滑り落ちないで Baby

フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト

 

COPYRIGHT©DR.MIKI ALLRIGHTS RESERVED. 
(権利者の許可なく歌詞、楽曲、の演奏・録音を禁じます。) 

https://www.youtube.com/watch?v=NZN3wffUqis

https://www.youtube.com/watch?v=68aoivdBK9s

 

 

さびの部分最後の「床が傾いているよ」という所は 

子供のころ行った遊園地の「びっくりハウス」に 

錯角を利用して実は傾いているのに、真直ぐに見える床の部屋があり 

ここに立った時の妙に苦しい感じを思い出して 

ウケないのに唄い手が必死に踏ん張っている感じに例えてみた。 

 

別にBハウスの床が傾いていた訳ではない。(^^;) 

 

曲もすぐ出来た。 

その頃心酔してたジョン・プラインの 

「ドナルドとリディア」みたいなカントリーワルツの 

リズムにして、もう明け方6時前だったが本気で唄った。 

 

そして買ったばかりのヤマハの4チャンネルのMTRを 

引っ張り出すとすぐ多重録音をしてみたのである。 

 

これがD28の僕の手許における最後の仕事になった。 

「ついてない事ばかりさ/このギターも人手に渡る」 

も、本当のことだったのだ。 

 

その後、僕はしばらくして 

「フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト」を 

Bハウスでも唄いだした。 

 

地味な唄やから、お客さんの反応は大した事はなかったのだけど 

厨房でいつも聞いててくれる高仲くんが 

気に入ってカバーしてくれて そのことから 

やはり店のスタッフで弾き語りの坂(ばん)君 

店の弾き語りのエースだったA-Show君 

広島から来てた横張登くんなど何人かの唄い手によって 

唄ってもらえることになった。 

 

みんな同じような境遇で唄ってたから、共感があったのだろう。 

ただ、面白いのは最初の高仲くんのカバーが、 

僕の原曲のワルツを4拍子のスローバラードでアレンジしていために 

みんなはそっちのアレンジで唄い始めたことだった。 

 

やがて高仲くんとウエイトレスの由巳ちゃんが結婚して 

Bハウスでお祝パーティをした時 

僕が唄ったのは「フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト」だった。 

 

僕は趣味だった写真を二人のために撮り 

作ったアルバムにこの唄の最初に書いた歌詞を貼付けた。 

高仲くんや由巳ちゃんだけは聞いていてくれてる。 

店のライブでの、僕の大事な心の支えの二人だったのだ。 

 

唄うたいだったら解るだろう。 

聞いて無い百人のお客さんより 

聞いてくれる一人のお客さんのほうが嬉しい。 

 

でもその一人を作るのは、良い唄を書きたい 

書かねばという本人の意志の持続だ。 

 

もう20年以上たってしまった。 

最近またまた、あの頃のことを嫌でも思い出す事があったから 

追憶にふけってしまったけれど

「フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト」も 

古い唄なので毎回ライブで唄う訳ではない。 

 

しかし今も唄ってみると、心はすぐさま蘇る。 

今も無名な僕だけれど「希望をすてるな」と 

あの頃の自分が必死に云うのである。      

 

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掌の遠国(てのひらのえんごく)13「赤鬼」

(インターネットより:昭和の家屋の真夜中のイメージ。)

◆赤鬼◆

「三樹ちゃん、お父ちゃんな

子供の頃に便所で
赤鬼みたんやて!」

五つ上の兄の発言は衝撃的だった。
何でも父が子供の頃
真夜中に便所に行ったら
真っ赤な顔の人が居て
赤鬼!と思ったそうなのだった。

「なあ、お父ちゃん
ほんまに便所に赤鬼おったん?」
半泣きで訊いて来る幼い次男に
父の篠原廣祐(当時38才薬剤師)は

「そやねん。お父ちゃんがな
真夜中便所いったらな
ほんまに真っ赤な顔した
知らんおっちゃんが立っとんてん。」

「そやけどなあ〜、今おもたら
たまたま誰かお父ちゃんの知らん人の顔が
電球の灯りでそう見えたんかもなあ・・
とも思うねん。」

父は何気に語った昔の記憶が
あまりにも自分の幼き子供達を
ビビらせた事に困惑しつつも
理論的論評を加えるのでありましたが・・。

幼児には真夜中の便所は恐怖であります。
ただでさえコワイのに
そこに赤鬼がおった!!っちゅう父の発言は
兄と僕を心底ビビらすのにふさわしい
爆弾発言だったのでした。(^^;)

それ以来随分長く、夜便所へ行くたびに
「赤い顔の知らんおっちゃんがおったら
ど、どないしよ〜」と
ビビり続ける夜が続いたのであります。

そして自分が赤い顔の酔っぱらいのオッサンと成り果てた今
全く平気で深夜の便所で用を足しつつ
ふとそんな可愛いげ溢るる過去を思い出したのですが
もう一つ印象的な赤鬼の思い出が。

それは堺東の変なライブハウスに
週一で唄うのに通っていた20年近く前。
高見ノ里から堺東まで自転車で走っていました。

夏の夕暮れ時、丁度 堺東警察を過ぎた辺りで
ふと空を振り返り見上げると
見事な入道雲が高い空に伸び上がり
夕映えの濃いオレンジ色に映えておりました。

「あ、赤鬼みたい。ユーモラス〜!」
と思った僕は自転車を止めて
いつか唄に作ろうと小さなノートを出して
「赤鬼」という歌詞を書き綴りました。

もう今はノートに歌詞を書かなくなりました。
iPhoneのメールでMacへ送るようになったのですが
その「赤鬼」の歌詞を書いた小さなノートも
どこかへ行ってしまいました。

でもそのおかげであの赤い大きな入道雲は
今でも僕の心にユーモラスに
そびえ立っています。

そして後年作った、「平野川」という唄に
成長の痛みに苦しむ子供を
笑って見守る入道雲になって
現れる事になるのでした。


↑ドクトルミキ 「平野川」動画
詞/曲 ドクトルミキ COPYRIGHT© Dr.Miki ALLRIGHTS RESERVED. 

 

(↓インターネットより:夕映えの入道雲)

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掌の遠国(てのひらのえんごく)12「果てしのない夏」

♪果てしのない夏♪

 

僕らの子供の頃 1960年代半ば。 
まだ原子力発電も東海村で実験段階で 
「原子力の平和利用」という言葉が使われていた。 

クーラーも一部の喫茶店とか銀行に 
水冷式の強力なやつがあったけど 
電車にもバスにも冷房はなかった。 

扇風機は値段が高く1万円くらいしてた気がする。 
青い透明な羽根が回転し、音を立てて風を送っていた。 
もちろん僕らはその前で「あああ~~~」 
と声にアナログディレイをかけるのだった。 

楽しみはときおり隣の喫茶店「タイガー」から 
出前でとってもらう「みぞれ」だった。 
手回しのかき氷機から降ってくる氷は、とてもふんわりしてて 
夏の下町の小さな南極みたいだった。 

家族4人で夢中でかき氷をたべると 
4人とも頭がキーンとなって 
つかのま冷え冷えとしてしまうのであった。 

2軒ほど隣にあった信用金庫には 
びっくりするほど涼しい(と思われた) 
冷房がかかっていた。 

目当ては中におかれた麦茶の出て来る機械。 
小さな紙コップがそなえられてて 
お客さんが無料で飲めるようにしてあった。 

何回も入って飲むと行員さんに怒られた。 
「ぼく どこの子や!」 
と云われると赤面して 
「隣の薬局の子・・」と正直に答えた。 

空には巨大な入道雲がそびえ 
僕は野球帽をかぶるように云われ 
5才上の兄と八戸ノ里の布施市営プールに行ったものだ。 
中で売ってた関東煮きが 
プールで冷えたからだに、これまた美味しかった。 

10円のソーダアイスは棒が2本ついてて 
二つに分割できるようになってたが 
割り方を誤ると片方がおっきくなっちゃって 
兄弟喧嘩を誘発するのだった。 

4人家族で眠る一階の8畳間は 
香取線香が焚かれ、灯が消された。 

暗がりの中で父が、まだ眠らぬ僕に 
兵隊時代の思い出を低い声で話したりもした。 

蚊取り線香と父の煙草の火が赤く点っていた。 

気がつくと再び明るい日差しの朝が 
高圧鉄塔の向こうの入道雲からやって来て 
夏は子供の僕らに果てしなく続くと思われた。 

人はどの時代にも精一杯生きていた。 

夏はその全てが明るく照らされ 
放置され 灼かれ 陰をつくり 
今なお僕らを暑い陽炎の中に投げ入れる。 

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掌の遠国(てのひらのえんごく)11「今川のおばあちゃん」

祖父と祖母。生駒の宝山寺にて。撮影:篠原広祐。

今川のおばあちゃん

1     母方の祖母が89才で死んだのは 
僕が22の年の冬だった。 

12月なのにそう寒くもなく 
晴れていて秋の葬式のようだった。 

それともそんな気がするのは 
少し前の祖父の葬式が夏の炎天下で、太陽が明るく 
その光の記憶が祖母の葬式の方にも 
少しこぼれているのかもしれない。 

祖母には明るい秋の日が 
似合っていたように思う。 

祖母は近鉄南大阪線の 
今川駅の近所に住んでいたので 
僕や兄は「今川のおばあちゃん」と呼んでいた。 

感情が濃厚と云うか 
よく笑いよく泣いたおばあちゃんで、 
最後の孫だった僕は溺愛された。 

街中の大通りの前の僕の実家と違い 
おばあちゃんの家は東住吉区の住宅街だったので 
母や兄と泊まったりした夜はとても静か過ぎて 
僕はなかなか寝付けなかった。 

ときおり終電間際の 
近鉄線の音がかすかに聞こえたり 
もっと遠い向こうから 
夜汽車の汽笛が聞こえたりする。 

僕は幼稚園か小学1~2年というところだったのだろう。 
母や兄は隣で寝息を立てているし 
突然階下から柱時計のぼーんという 
物悲しい音がして不安になる 

薄暗がりの中で、襖の上の方に掛けてあった 
「ビーナスの誕生」か何かの絵が 
今にも動きだしそうな気がして、固く目を閉じた。 

けれど朝になれば今川のおばあちゃんの家は 
あっけらかんと明るかった。 

一階の仏間に居ると決まっておばあちゃんは 
「ほら、あそこのスミのとこで 
ひょいと立ち上がって歩きだしたんやで  
三樹ちゃんは。」と僕に云う。 

実際、この今川の家で 
僕は初めて立って歩いたらしく 
おばあちゃんにとってそれは、 
純粋な驚きと喜びだったのだと思う。 

ともかくあんまり何度も云われたので、 
「おばあちゃん またゆうー。」とむくれると、 
それにも笑って大喜びのおばあちゃんだった。 


2      一階の仏間と云えば 
もうひとつはっきり覚えている事がある。 

話す事も出来無かったのだから 
1才前だったのだろう。 

その晩、僕は仏間に寝かされていた。 
母が横に寝ていた。 

階段の上り口の壁に 
子供のような影が写ってゆらゆら動いていた。 

今でもあれが何だったかよく分からないのだが 
ともかく僕はそれが怖くて 
火が付いたように泣いた。 

母も起き出して「どうしたん?」と 
根気よくいつまでもあやしてくれるが 
その影はいつまでも消えない。 

絵本に出てくる 
影絵のような感じだった。 

母にそれを訴えたくて 
いつまでも泣いていた気がする。  

ともかく今でも不思議だけど 
そんなこんなで僕がぐずったり 
寝付けないでいると母はよく 

「三樹ちゃんの寝る間に アモついて~」 
と云う子守唄を唄ってくれた。 

「アモ」と云うのはオモチの事らしいが 
子供心にそれがすごく甘くておいしそうで 
唄ってもらうのが嬉しかった。 

母もまた祖母によく 
唄ってもらったのかもしれない。 
物悲しいメロデイの子守唄だった。 

それで、おばあちゃんの家は好きだったけれど 
泊まるのは苦手だった。 

おばあちゃんの家に居ても 
夜が更けてくると僕は母をせかして 
早く家に帰りたがった。 

僕達が今川の家の門を出ると 
決まっておばあちゃんは 
家の前でいつまでも手を振っていた。 

僕達も何度もふり返って手を振る。 

曲がり角の手前の別の家の塀から 
うっそうと繁った松の枝葉が 
終夜灯の黄色い光を浴びて 
黒ぐろと影をつくって浮かび上がり 
いつも見ないでおこうとしても見てしまう。  

やがて、駅の方への曲がり角に来てふり返っても 
おばあちゃんの小さな姿は 
まだ手を振っていて遠く 
ひどくたよりなげだった。 

電車とバスを乗り継ぎ 
生野区の父の待つ実家に帰ると 
表の車の騒音や蛍光灯の明るさに 
僕はほっとするのだが 

家に帰ってもしばらくは 
おばあちゃんの家にある 
何とも云えない寂しさのようなものを 
少し連れて帰ったような気がして 
又メランコリックになったりもした。 


3      幼稚園に上がる前位だったか 
今川の家に白い猫がいた。 

生野区の実家の猫とは 
又違う毛色だったのが珍しく 
捕まえようとして逃げられ 
その猫が帰って来なくなった事があった。 

それはすごくショックだった。 

「三樹ちゃんが追いかけたから 
庭の木のほら、あの枝を伝って逃げてしもうたよ。」 
と笑いながらおばあちゃんは、 
何度も僕に云うのだが 

『なんであんな事したのに、 
おばあちゃんは僕をおこらへんねやろう? 
あの猫はどこへ行ってしもたんやろう?』 
と長い間思っていた。 

おばあちゃんの家には小さな庭と縁側があり 
夏場には涼しい風が吹くので 
おじいちゃんがよく籐椅子に深く座って目を閉じていた。 

おじいちゃんは静かな人だった。 
けれど92才で亡くなる前 
おじいちゃんは真顔でおばあちゃんに 
「おまえは早よ死ね」と云ってたそうである。 

僕の母など「あれは本音やった」と 
しみじみ云ったりするのだが 
その母が時折語るおばあちゃんとおじいちゃんの人生は 
子供だった頃の僕などには到底理解しずらいものだったようだ。 

おばあちゃんはその濃厚な感情 
と云うか激情ゆえにおじいちゃんを 
かなり苦しめていたらしい。 

よく喋る賑やかないとこ達からも 
おばあちゃんとの間に様々な事があったと 
後に聞いた。 
  
・・本当はそんな場面を見てはいないのに 
おばあちゃんが縁側に座り 
猫が伝って逃げて行ったあの木を 
ぼんやり見ている映像が心に浮かぶ。 
  
自分の中にある激しい感情も 
天然パーマも、丸顔団子鼻に至るまで 
おばあちゃんの血なのだが 

それでもおばあちゃんの事は 
実を云うと未だによく分からない。 

もちろん、母や伯母 
いとこ達にもっと聞いてみたり調べたりすれば 
事実としては色々呑みこめるのだろうけれど 

祖母とその最後の孫と云う 
年齢の差の距離は容易に埋りはしない。 

けれど今はその「分からなかった」 
と云う事が悔やまれるのでは無くて 
とても不思議なありのままの事として 
「『分からない』 と云う事をついに悟った」のだと  
ふと思ったりする。 

(2010年8月15日、17日、20日のmixi日記より加筆・訂正の上 
三回分をひとつにまとめて転載いたしました) 


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掌の遠国(てのひらのえんごく)10「個人的な思い」

個人的な思い◆

人は個人的な思いが全てではないか 
と思うことがある。 

僕が唄うのも個人的なことだし 
それは何かに例えたり 
別の人格になぞらえたりはするけれど 
心の奥底の個人的な事を、唄おうとしているような気がする。 

大島渚が監督した「戦場のメリークリスマス」は 
サー・ローレンス・ヴァンデルポストの小説の映画化だったが 
小説にしろ映画にしろ、英軍兵の捕虜のジャック・セリアズ 
(小説ではジャック・セリエと訳されていた)のことが心から離れない。 
  
彼は言わば英軍兵の英雄で 
友軍の尊敬のみならず 
日本軍の捕虜収容所の所長の関心までも集めていた。 

しかし、様々の事があり 
彼は英軍の捕虜を救うための行為が元で 
生きたまま土に身体を埋められるという 
残虐な刑罰を受け死んでいく。 
  
彼を救うための術を持たない英軍の捕虜たちは 
声を合わせて、賛美歌を唄う。 
しかし、死んでいくセリアズの心に響いていたのは 
賛美歌だけではなかった。 

それは故郷の家に今も暮らす弟のことだった。
唄がうまく、けれど身体に障害があり 
なにかにつけ完璧にみられた兄のセリアズと比較されて 
孤独に追いやられた弟の事と、その歌声が響いていたのだ。 

かって、セリアズの通った寄宿制の学校に弟も入学してきた。 
優等生でみんなに好かれ 
非のうちどころのないセリアズとはまるで違う弟は 
入学のときの荒っぽいセレモニーで 
上級生たちに精神的なリンチを受けてしまう。 

しかしセリアズは弟を救うことが出来なかった。 
そしてそのことで、セリアズは罪の意識を背負ってしまう。 

アフリカ戦線でドイツ軍と戦っているときも 
南方に転戦し日本軍と戦うようになっても 
彼はたった一人の弟を見捨てたという、罪の意識に苦しみ続ける。 

そして一本の木のように 
土に埋められたセリアズの心には 
弟の幻影が現われ「お兄さんお帰り」と云う。 

弟は美しい声で唄いながら庭に種を植え 
花の手入れをしている。 

本来なら、日本軍の仕打ちを呪いながら 
死んで行っても不思議はないのに 
セリアズは弟のことを思い、静かに息絶える。 

勿論、これは寓話なのだが、 
ヴァンデルポストが原作「種と種蒔き人」で云いたかったのは 
どんな状況でも、人は個人的な思いから逃れることは無いのだ 
ということかもしれない。 
  
もう一つ、僕が最近何とも云えぬ気持ちになったのは 
イタリアの詩人で学者のプリーモ・レーヴィのことだった。 
この間テレビでみたのだけれど。 (注:2001年当時)

彼はユダヤ系だったために 
戦時中あの悪名高いアウシュビッツに入れられてしまう。 

しかし何とか生き延びナチスの残虐行為の 
というより人類の悪行の証言者として40年を 
「これが人間か」や「周期律」といった著作を重ねたそうだが 
結局自殺してしまう。 

「私は思い出す。 
言葉が不自由で知能に障害があるにかかわらず 
私に懸命に、収容所内のきまりをおしえてくれようとした男。 

2mの大男で、人一倍お腹がすくだろうに 
みんなを助けようとして進んで力仕事をした男。 
こういった人がみな処刑されてしまった。 

救われた私は、あの死んでいった多くの友人たちより 
価値があったとでもいうのであろうか。」 

ナチスが悪いんやんけ 
あんたのせいや無いやないか 
と云ってもレーヴィは救われなかったのだ。 

友人の死の哀しみと溢れる個人的な思いが 
自由になって40年の後 
彼をアパートの螺旋階段からつき落としたのだった。 

彼の墓には遺言によって、詩人であったことも 
科学者であったことも記されておらず 
ただ名前と、生きた年月 
そして6桁のアウシュビッツの囚人番号 
「174517」のみが刻まれているという。 

運命もある。 
奇蹟的なこともある。 

しかし人を本当に動かすのは 「思い」である。 
それは外側からは見えない。 

そのいと深きものにこうべをたれ、 
しゅんとなってしまうのだった。 

(2001年頃の HP DYLAN'S CHILDREN 
エッセイ 『ドクトルミキのぶんつくがまがま』より再録した文章です) 

追記:「戦場のメリークリスマス」の原作のヴァンデルポストは
南アフリカ育ちの英国人で 大戦前からの相当な日本びいきでした。 

それで「日本人はアマテラスという女神を信仰する民族で、 
(そりゃ、天照大神は女性神だけど、 
ギリシャ神話的に理解してしまうんですね。) 
満月の夜には集団で狂気に陥る」 
という、なんとも美しい勘違いをしています。 
映画で、たけしが演じた「原軍曹」の暴力も、 
そのせいだと小説には書いています。(((^^;) 

その点、大島渚監督はリアルに戦争の狂気を描いていて 
詩人の鮎川信夫も、この映画に関するエッセイで、 
自身の従軍体験から、「おおむね日本軍はあんな感じだった」 
と記していた記憶があります。 

坂本龍一の音楽も秀逸だったし 
闇の中、息絶えようとしているセリアズの頭に 
一匹の蝶がとまる場面が、何とも印象的でした。

https://www.youtube.com/watch?v=x1YkHJJi-tc

(昔カセットに入れた坂本龍一の
戦場のメリークリスマスの音楽を何時も何度も聴きました。
そしてデビッド・シルビアンが歌詞を書き唄ったこの唄は
映画には使われませんでしたが、こころの奥深く響きました。
押し殺した声で、永遠に消えないように思える愛の傷を唄うこの歌は
何度聴いても今聴いても切ないです。
デヴィッド・シルビアンの唄うYouTubeです。)

「禁じられた色彩」

手にした傷は けっして 癒えることはない
信じてさえいれば報われると 私は思っていた

彼らとの間には 越えられない 距たりがある
イエスの教えに従うべきか 内なる衝動に委ねるべきか

この愛は 禁じられた色彩を帯びる
けれども私は 人の営みを信じる

無意味な歳月があっという間に過ぎさり 
無数の人々が喜んで 命を捧げていく
それでも 何も残らないのか?

わきおこる衝動を抑えようと
私は心の奥深くに 自分の気持ちを沈める

この愛は 禁じられた色彩を帯びる
けれども 私はいま一度 人の営みを信じる

己の拠って立つ所すら 信じきれないのに
何もかも盲目に 信じこもうとしつつ
答えのない問いを 繰り返す自分がいる

彼らとの間に 越えられない距たりを感じる 私がいる
イエスの教えに従うべきか 心変わりすべきか

この愛は 禁じられた色彩を帯びる
けれども私は 人の営みを信じる
この愛は 禁じられた色彩を帯びる
けれども 私はいま一度 人の営みを信じる

(日本語訳 by GivingTree)

「Forbidden Colors」 

The wounds on your hands never seem to heal
I thought all I needed was to believe

Here am i, a lifetime away from you
The blood of christ, or the beat of my heart
My love wears forbidden colours
My life believes

Senseless years thunder by
Millions are willing to give their lives for you
Does nothing live on?

Learning to cope with feelings aroused in me
My hands in the soil, buried inside of myself
My love wears forbidden colours
My life believes in you once again

I'll go walking in circles
While doubting the very ground beneath me
Trying to show unquestioning faith in everything
Here are you and i, a lifetime away from you
The blood of christ, or a change of heart

My love wears forbidden colours
My life believes
My love wears forbidden colours
My life believes in you once again

(Words by David Sylvian)


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掌の遠国(てのひらのえんごく)9「草ぼうぼうの広野」

◆草ぼうぼうの広野

(2000年頃書いた文章です) 
友部正人のCBSソニー時代のアルバム 
「どうして旅に出なかったんだ」は、思い出深いアルバムだ。 

たしかバックはスカイドック・ブルースバンドで 
それまで友部正人はずっと、ほぼギター1本で録音してたから 
アルバム全体のにぎやかさと 
ラストの曲「ユミはねているよ」の静けさが特に印象深い。 
  
何度レコードをかけても、ラストの「ユミはねているよ」が 
あの時代の あるいは友部正人の青春の 
エンディングテーマのように聞こえたものだった。 

おととしの四月 
神戸の「ナフシャ」で行われた友部正人のLIVEで 
僕と石山君、スガハラジュテームの三人はPAの助手をさせてもらった。 

初めて身近に友部正人本人と声を交わしたけれど、 
静かなのにものスゴイ人だなと思ったりした。 

今は唄の力を力ずくで行使しているというか 
早く歌い終わってニューヨークへ飛んでいきたいというムードだった。 
  
昔、初めて大阪へやって来たときとか 
高岡で見た街のお祭り騒ぎを、ニューヨークでは 
日々静かに味わっているんだろうなぁ。 

中学生の頃、雨の降る日の薄青い室内で 
友部正人の「にんじん」にレコードの針をおろした時の 
あの一曲目の「ふーさん」の 
ギターとハーモニカが忘れられない。 

僕の歩く道は、知っている道の正反対にあるよ 
と教えられた気がした。 
雨だれの音や、沈黙に似た唄だった。 
  
今はジャズギタリストになった橋本(藤本)裕や 
中学からの友人の関口夫妻や石山君、スガハラジュテームとも 
友部正人の唄をつながりとして、みんな輪を描いてきた気がする。 
  
レッドベリーやウッディ・ガスリーや 
ディランや、友部正人が所々立っている 
草ぼうぼうの広野に 
僕も双眼鏡とギターを手に立っていたいと思う。 

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掌の遠国(てのひらのえんごく)8「DYLAN and ME」

DYLAN and ME 


昔 NHKで東京の無名フォークシンガーのドキュメンタリーをやっていて 
そのシンガーが「ディラン あんたの子供を身ごもった~」と唄っていた。 

ディランは、ほっとき上手なボスだった。 
もう何年も何年も音信不通になってるけど、今さら唄を聴かなくても 
十分なほど知った気がするでっかい岩石か、地面のようだった。 

高一の時、友達のお姉さんの恋人が
ディランのレコードを10枚程貸しててくれた。 

オヤジが隠してた「インバーハウス」というウィスキーを 
水道水で割ってグビグビ飲みながら、レコードを聴き 
丁度「ハイウェイ61」の”ライク・ア・ローリングストーン”の 
サビの所で酔いとショックがシンクロしてハイになったのを憶えている。   

森のなかの大木がたおれて、そこから多くの植物が芽を出すように 
様々な音楽がディランから生まれた。 
友部正人はディランに会えるだろうか? 
そういえば、今度日本に来るらしいね。ディランも老人になりつつある。 

唄の王の今日の機嫌はどうなのだろう? 
ディランはいつまで死と闘えるだろうか。 
アメリカ人、ディラン。ディランには日本は無関係な土地であり
日本人はよけいに無関係だろう。 

だがディランがディランであるように
君は君であり、僕は僕であれば良いのだ。 
そして、ディランは唄とギターのあつかい方を 
親方のように僕たちに示してくれた。 
なんとよい日々だったろうか。 

                                                        (2000年頃書く)

掌の遠国(てのひらのえんごく)7「父の面影」


























(父・廣祐と)

◆父の面影◆

夏の真夜中に赤い煙草の火が点っている。 

父は居間で一人の晩酌を終えてから 
母と兄と僕が川の字で眠る八畳の間の 
僕の隣りの布団に横たわるのが常だった。 

今も僕は父に似て宵っ張りだが 
大元の父も寝つきは悪く、寝煙草の癖があった。 

兄がまだ小学校の低学年 
五つ下の僕は五歳にも満たなかっただろう。 
蚊取り線香が煙り 
扇風機は風を送りながら首を振り 
母と兄は寝息を立てていた。 

「三樹ちゃん寝てないんか?」 
「うん…」 
「しゃあないなあ。なんか話ししたろか。」 
「うん。」 

「あれはお父ちゃんがまだ兵隊の頃やなあ。 
お父ちゃんは友達の兵隊さんと二人 
見渡す限りのひろーい草原の一本道を歩いてたんや。 
月の明るい、風のある夜やったなあ。 
ほんならな、前の方から長い髪の女の人が歩いて来たんや。」 

僕は寝ながら父を見上げ 
くわえ煙草で寝転んだ父は、天井を見ながら話していた。 
父の呼吸に合わせて、闇の中で 
赤い煙草の火が明るくなったり 
暗くなったりした。 

「お父ちゃんも友達も、なんやらゾーっとしたんや。 
それでも2人とも固唾を飲んで 
そのまま一本道を歩いて行った。 
やがてお父ちゃんらと 
その女の人は道を擦れ違ったんや。」 

「それでどないしたん?」 
僕の声は恐さにかすれてたのではないだろうか。 
それにくらべ父の声は低く太かった。 

「あんまり変な感じがすると 
言葉が出えへんもんやねんなあ。 
お父ちゃんと友達はそのまましばらく歩いたんや。」 

「ほんでな、まるで申し合わせたように 
お父ちゃんと友達は立ち止まって振り返ってしもたんや。 
そしたらな、向こうの女の人も 
立ち止まってこっを振り返ったんやで。」 

「その時の女の人の顔が真っ白でなあ 
お父ちゃんらまたゾーっとしてなあ。」 

「ゆうれいやったん?」 
「そんなことはないと思うんやけどな 
あとで友達と言うたんは 
あの女の人もほんまは、恐かったやろなあ… 
いうことやねん。」 

父は煙草を消し 
あるいはもう一本喫ったのかもしれないが 
僕はそれから固く目を閉じて 
眠りに落ちたのだと思う。 

父が低い声で話した夜の光景は 
幼児だった僕の心に 
月灯りの優しい色合いで描かれた 
絵本のような怪談として 
心に深く長く残ることとなった。 

そして明くる朝は、蝉がやかましく哭く 
真夏の一日に間違いなかった。 

それは夏休みの宿題や 
木曽福島への楽しい旅行や 
どうしても枯らしてしまう 
物干しのヒョウタンの観察日記に悩んだりする 
あの懐かしい、永遠の夏休みだった。 


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掌の遠国(てのひらのえんごく)6「生駒の宝山寺」

◆生駒の宝山寺◆

(2007年8月2日に書く。ちょうど六年前の記事です。)


先日の月曜日、生駒にある宝山寺へ母と二人行って来た。 
生駒駅からケーブルカーに乗って一駅。 
あとは長い石段の門前町をえっちらおっちら上がって行く。 

昔 ここへ来た事がある。
その時 母は35才、僕は3才
父は38才、兄は8才、母の父親で僕の祖父は77才。 
ここは僕の祖父がよく参っていたお寺だった。 

宝山寺は別名「聖天さん」(しょうてんさん)ともいって 
大阪商人が信仰していた商売の神様で、御本尊は不動様だそうだ。 
山全体が境内になってて、仏様と神様が一緒に祭られている。 

熱心に信心してた祖父はそのかいあってか
戦争中すべての倉庫が空襲を免れ、息子たちも戦争から無事生還。 
戦後の物不足で、倉庫の品物は飛ぶように売れた。 

祖父のお店はそんな訳で戦後発展し会社になった。 
毎月のお参りを歩けなくなるまで欠かさず
祖父は92才の長い天寿を全うした。 

実は祖父の焼けなかった倉庫というのは 
空襲を逃れて疎開してゆく同業者から頼まれて買ったもので
買ったとしても焼夷弾で焼けてしまうかもしれない物だった。 

母がいうには「人が困ってるのをほっておけん人やった。」 
無口で不器用な祖父であったが
そんな祖父の孫で良かったなあとも思う。 

もう今は80才になった母が何とか元気なのも 
ここのお寺に祖父が信心してたおかげかなあ~ 
とよく思っていて今やっと母と一緒にお礼にきた訳である。 

お寺の境内は平日で人かげも少なく
母はほとんど変わっていないお寺の景色に心打たれて 
自分の父親の思い出にふけっているようだった。 

帰り道、また石段を母の手を繋いで一歩一歩
僕達はゆっくりゆっくり降りて行った。 
門前町は猫たちがのんびりする穏やかな町だった。 

母はこのお寺には昔よく来たけれど
2007年に80才になって、この階段を降りることは 
想像できなかったとつぶやいた。 

僕は思い出す。 
お寺の社務所に幼児の足でトコトコ行ってみると
祖父はしゃがれた声で僕に穏やかに云った。 
「おじいちゃんは大事な御用があるから向こうで遊んどり。」 
僕はうなずくと、またトコトコと
家族の待つお寺の広間に戻って行った。 

ただそれだけのことなのだが、
45年前のその記憶はまるで澄んだ水の面のような明るさで、
僕の中に光り、揺らいでは蘇る宝ものになっていたのである。

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掌の遠国(てのひらのえんごく)5「母の手」































(何気なく撮っていた病床の母の手。 ) 

■母の手■

昨日の朝は母の事を考えていました。 
母の最期になってしまった夜 
まさか今夜とは思わず兄が帰り 
見舞ってくれたバンド仲間の石山君も帰り 

11時前でしたか気持ち良さそうに眠る 
母の柔らかく温かい手を 
僕はベッドの横に座りずっと握っていました。 

子供の頃よく握った時と同じ柔らかさ温かさでした。 
すると病室のドアが開き 
若い二人の看護士さんが入って来て僕に頭を下げて 
「ご臨終です。」と小声で云いました。 

ナースステイションのモニターでは 
もう母は逝っていたのでした。 

母は僕に手を握られたまま旅立ちました。 
2012年の11月27日 
僕の誕生日のひと月あとの同じ日でした。 

今も僕の頭は母の死を知っているけれど 
心は認めてない気がします。 

僕が18の時逝った父も 
三年前85才で逝った母も 
僕の心に住んでいます。 

人が本当に死ぬときは 
もう誰も覚えている人が居なく成った其の時なのではないかと 

僕は思います。


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掌の遠国(てのひらのえんごく)4「幼年期」













                   




                                                              幼年期         

子どもの頃の夕焼けは 
晩御飯のおかずにあった 
紅生姜の天ぷらの色だった。 
一日の終わりは幼児の目に鮮烈だった。 

はやく家に帰らないと 
「コトリが来る」と言われ 
 小型の頭の中では線画のヒヨコみたいな
巨大な小鳥が白黒アニメで登場し 
子どもをくわえて連れて行く妄想して震えた。

子どもなりの人間関係の悩み事がすでにあり 
親に言わない秘密もすでにあった。 

子どもには夜の暗闇は深く 
テレビの「日曜洋画劇場」で怖い映画を観た夜ふけは 
寝静まった家を覆う暗闇に怯えた。 

けれど夢に落ちるといつも 
あっという間に白く眩しい朝になっていた。 

そうしてまた結局、鮮烈な夕焼けが巡って来るのだが 
大人の腰くらいの高さの 
子どもの頭は 
見るもの聴くものに敏感に反応し 
幼年期はまるでワラビもちの中を歩むかのような緩慢さで、
ゆっくりと過ぎて行くのであった。
 
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掌の遠国(てのひらのえんごく)3「こぼれ落ちる花びら」


















(こんな色の菊の花びらが教室の木の床にたくさん散らばっていました。)

◆こぼれ落ちる花びら◆

(これは昭和40~42年頃のことです。 
1965~1967年頃と云えば分かりやすいでしょうか。) 

小学校の給食が嫌いだった。 
コッペパンや食パンはいいにしても 
脱脂粉乳の牛乳は一気飲みで流し込むしかなかった。 

あと全校3000人分の児童の分を 
バイキンマンUFOみたいな巨大鍋で 
ボートのオールでかき混ぜて作る 
くちゃくちゃの変な匂いのおかずが嫌いだった。 

1年2年の頃、おかずを残すと5・6時間目が終わり 
掃除が始まってもまだ食べるまで教室に残される。 
Tという、ばあちゃん教諭が帰る時刻まで。 

もう一人いつもおかずの食べられない女の子がいた。 
色白のおとなしい女の子で、話したことは無かったが 
理不尽ないじめに対する悲しみと怒りは共有してたと思う。 

あの頃 たった一人の男の友達がいた。 
僕も彼も妄想夢想癖が同一で 
怪獣やプラモデルが大好きだった。 

今思うと可笑しいけれど、二人は飛行機や! 
ということになっており 
僕らは双発のプロペラの一機ずつで 

二人で肩を組み お昼休みの校庭を 
ゆっくりとパトロールするのが楽しみだった。 
「あ、へんなぶったいをはっけん」 
「りょうかい せっきーん。」とか云いながら。 

と、いうことは そういう日は難儀な給食を 
こっそり便所に捨てるとか、机に押し込むとかして 
なんとかやり過ごした昼休みだったのだろう。 

その彼は「僕はしんぞうがわるいねん」 
「3ねんせいになったらな、しゅじゅつすんねん。」 
と僕にいつも云っていた。 

「3ねんなんて、ものすごーさきのことやなあ」 
「でもな ぼくしゅじゅつて、なんかこわいねん。」 
「だいじょうぶなんちゃう~?」 

二人はそんな事も語らいながら 
肩を組んだのと別の片手の主翼をのばして 
「ぶーううん」といいながら校庭をパトロールし続けた。 

3年になって担任が少し若い30代の女の先生に代わり 
給食を残しても、お小言だけに成りつつ在る頃 
クラスの変わったあの飛行機のかたっぽ友達とは遊ばなくなった。 

校舎は1・2年の木造の分校から鉄筋の新校舎に移り 
友達も様がわり、でも相変わらずプラモデルと怪獣が 
おとこのきずなの根本の日々だった。 

そんなある日 彼が死んだという知らせを聞いた。 
お葬式は新校舎の彼の教室だという。 
僕は同じ組ではなかったので参列出来なかったんだと思う。 

放課後の教室には祭壇が飾られ 
黄色い菊の花があふれるほど飾られ 
花びらがいっぱい床にこぼれ落ちていた。 

ひとり立ち尽くしていた僕に 
黒い服を着たお母さんが痛々しい笑みを浮かべて 
「しのはらくんやね 仲良くしてくれてありがとうね。」 
と云った。 
お母さんの顔は今も覚えている。 

でもあの友達の顔も 
名前も、もう思い出せない。 
僕の幼い心のフラスコは悲しいほど小さかった。 

あの床にこぼれ落ちるほどの 
たくさんの黄色い菊の花びらは 
僕が始めて見た 人の死だった。 
僕は意味が分からず そこから立ち去るしかなかった。 

やがて高学年になると 
自分も給食が嫌いな男の担任の先生と 
愉快な友人達のおかげで学校は楽しくなった。 

1・2年の頃、ばあちゃん教諭に 
「こんなに給食を残す子は、大人になっても 
なんにも食べらへん人間になるんやで!」 
と云われたけど、今は何だって食べられる。 

(脱脂粉乳は絶対買えへんけどね。 
文部科学省の大臣 あれ飲んでみい~。) 

ときおり朝 
「しのはらくんはおとなになれてよかったなあ」 
とあの友達に云われる気がする。 

僕は何処へでも行き、好きな唄を唄い 
君の分の世界も生きようと思う。 

どんなにみにくいことがあったとしても 
この世界は必ず美しい。 


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掌の遠国(てのひらのえんごく)2「汲み取りのおっちゃん」

















(写真はインターネットより。昭和40年代の雄々しきバキュームカーの姿。)

♫汲み取りのおっちゃん♫
 
「汲み取りのおっちゃんが来たで!」 

「汲み取りのおっちゃんや~」 
「わ~い」 

小学校2年の僕ら何人かの熱心な 
汲み取りのおっちゃんフォロワーは 
昼休みの汲み取り口に大集合するのだった。 

ぼろい分校の汲み取り口は 
恐怖の異次元の海の入り口だった。 

まるでバルンガの分泌物の海のごとし。 
(僕らのなんやけど。) 

それを雄々しく、麦わら帽子にダボシャツにゴム長姿で 
ザクの動力パイプみたいな、黒くてかっちょいいゴムホースを抱えて 

『ズザザザー』とバキュームカーのタンクに吸い取って行く 
汲み取りのおっちゃんは一部の男子のヒーローだった。 
またあのバキュームタンクの形状が男子マインドをわしづかみ。 

2~3人のおっちゃんの中の親方さんみたいな人が 
タバコをくわえながら僕らをまぶしそうに見やり 
「また来たんか、ぼんらは。」 
みたいな顔で、渋い大人の表情を見せる。 

普段、嫌いなバアちゃん先生の授業など 
全く聞いてない僕もこの時はコーフンするのだ。 

「なあなあ おっちゃん あんね もしも 
こん中(汲み取り口)へ落ちたらどうなんの!? 
くそーて死んでしまうのん!?」 

普段、授業中絶対に質問なんかせえへん僕も 
汲み取りのおっちゃんには、渾身の質問をしてしまうのだった。 

するとおっちゃんはタバコの煙をゆっくり吐き 
「そやなあ。まず窒息するやろな。」 

「窒息っ!!!! かっちょえ~!!!」 

居並ぶコアな汲み取りのおっちゃんフォロワーの児童たちは 
心底どよめくのだった。 

「くそーて死んでまう」と「窒息死」の 
この子供と大人の余裕の違いのリアルさに 
わしら一部の男子は身をよじり感動してしまうのだった。 

いまだに「超ひも理論」だの「常温対消滅」だの 
「半物質」だの「核融合反応」だのにうっとりしてしまう僕は 
あの頃と全然変わっとらん。 

あの頃の頭の中はガラモンやカネゴンや 
ペギラやセミ人間や科学特捜隊の 
ジェットビートルやシービュー号や 
サンダーバード2号の事でいっぱい。 

「なんでバルタン星人と 
ケムール人の笑い声は似てるねんやろ?」 
とか、「ジラースはえりまきとられたら 
ゴジラに似てる気がするけど気のせい?」 
とかそんな疑問でいっぱい。 

やがて「窒息 窒息」と 
小声で上気してつぶやく僕らに 
汲み取りのおっちゃんらは 

「ぼんらなあ、汲み取り口に落ちたらあかんで~」 
と云いながらバキュームカーとともに 
やはり雄々しく去って行くのだった。 

それは幼年時代のまぶしい 
ときめきの追憶のひとこまなのであった。

掌の遠国(てのひらのえんごく)1「時計屋でパンを買う」


























(昨年夏、ドクトルミキ写す。パンを売ってた時計屋さん。今は空き家のような感じでした。)

♫時計屋でパンを買う♫

子供の頃 1960年代  
時計屋さんでパンを買った。 
僕の住んでいた大阪生野区の実家のあたりだけやけど。 

もう一軒のパン屋さんは子供の足には若干距離があり 
時計屋さんの方は 実家から3軒目の 
タバコ屋さんの角を曲がって10メートルくらいなので 
近くて良かった。 

母にパンを買ってくるように云われると 
自分としては風のように時計屋さんに走って行った。 
たぶんコロコロと走って行ったのだろう。 

時計屋さんのガラス戸をがらがらと開けると 
真向かいに時計屋のはげ頭のおじさん。 
戸の横手には小柄なおばちゃんが居て 
ガラスケースにパンが並べてあった。 

はげ頭のおじさんは片目に拡大鏡をはめて 
時計の修理をしている事が多かった。 
そのおじさんの奥さんのおばちゃんは 
色白の優しい声のおばちゃんだった。 

ガラスケースの中には、小さな富士山みたいなパンや 
イチゴジャムやチョコレートや白いクリームの入った 
巻貝のような形のコロネや 
野球のミットみたいな 
漫画の手のひらみたいなジャムパンが並んでいた。 

母のお使いはたいてい食パンだったけど 
何か自分の欲しいのを買っても良い事になってて 
たいていコロネを買ったと思う。 

巻貝形のコロネのイチゴジャムがのぞく穴には 
小さな四角いパラフィン紙がペトっと貼ってあり 
夢の国のオブジェのようでもあった。 

その穴からジャムだけ吸ったりしていると 
「これ パンも食べなさい」と母に注意された。 

パンの他にうどんやおそばの麺も売っていたっけ。 
小柄なおばちゃんはいつも笑顔で 
それは今思えば、子供好きの優しい笑顔だった。 

時計屋さんの息子さんが結婚して 
時計屋さんの二階に一緒に住むようになり 
家計の足しにするためにパンを置いたのが 
なかなか好評だったらしい。 

だから僕らの近所の人はみんな 
時計屋さんでパンを買っていた。 

一度お客さんが来て、母が僕に 
「時計屋さん行って パンこうといでー。」 
と云ったら、お客さんが「ええ?」と驚いていたなあ。 

コンビニも携帯電話もなかったあの頃。 
でも 今ではもう無いことがたくさん息づいていた。 

記憶の中の日差しは濃密で 
車通りの多かった実家の周辺の物音を 
今もありありと思い出すのだった。 



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