音楽と詩 ドクトルミキ

1~24

音楽と詩 ドクトルミキ 1


僕にとっては音楽は詩だ。詩情の音といってもいい。

言葉もメロディもギターも詩情の発露としてとらえている。

けれど歌詞は詩でなく詞と表記することにしている。

夜店の水中花のように、歌詞はメロディと出逢い

本当の音の詩に昇華する・・と信じたい。

夏の陽炎がやがて真夜中の神秘に変わるように。

かっての人生の苦渋がやがて暖炉の前で黄金になるように。


音楽と詩 ドクトルミキ 2


文学の詩は読む詩、朗読する詩 だろう。

音楽の歌詞は唄う事で詩になる可能性のあるものだ。

料理に例えると文学の詩は自由な大皿、小皿、器に盛られた料理だ。

時に鉄板で焼かれまま、鍋で煮られてすぐ味わうものも在るだろう。

けれど音楽の歌詞は、メロディという容器に入れなければならない。

それはお弁当とか駅弁とかレトルト食品にも似ている。

自由に大皿に盛られた料理=詩を、大きさや形の決まった弁当箱に

上手に詰め込む事によって、詩は歌詞になる

丘の上、あるいは工事現場のビルの上で食べる弁当の卵焼きに

作ってくれた愛する人の表情を思うとき、生きる勇気が湧くように

メロディにのせられた言葉を唄うとき、舞台の暗がりに詩情が漂う。

太陽の光がこぼれたり、冬の木枯らしの中の孤独が蘇る。


音楽と詩 ドクトルミキ 3


99年の終わりから6年間、ある学校で作詞を教えていたことがあった。

音楽の中で言葉=歌詞だけが音楽ではない。

音楽は死ぬ程好きだが楽器は出来ず、唄もうまく唄えず

けれども音楽と関わって生きたいという生徒は、歌詞を書く事を選ぶのだ。

ところが僕は其の頃歌詞を書く事を教えながら、 音楽そのものの詩情について

よく考えたものだった。子供の頃、僕が好きだったのは「メロディ」だった。

ベンチャーズが「パラダイス・ア・ゴー」として演奏していた

ボロディンの「韃靼人の踊り」の華麗なメロディ。

父が良くSPをかけて聴かせてくれたナットキングコールの切ない「プリテンド」、

江利ちえみの唄う陽気な「ジャンバラヤ」、そして多くのビートルズのメロディ・・

美しいメロディは物悲しい詩情で胸を締め付け、甘美な気持ちで僕を悩ませた。

まるで妖艶な美女のようにメロディは僕を誘惑した。

あるいは楽しい祭りそのものの陽気さで、僕をうきうきさせた。

そしてそのメロディを抱きしめたいがために書かねばならぬ

苦しい恋文こそが、音楽の中で唯一音楽ではない言葉だとは

なんとも皮肉で興味深く、陰影を帯びたことだったろう。


音楽と詩 ドクトルミキ 4


メロディ 歌詞 コード ビート・・ 音楽がシチューならば、

音楽は様々な具材が煮込まれて成り立っていると云える。

其の中でビート、いわゆる「ノリ」の大切さに気づいたのは、

高校のフォークソング部から大学の軽音楽部辺りの多感な頃だった。

元来 自分はギター1本の身軽なフォークシンガーだから、

シチューで云えばお汁に当たるコードとビートは、

ギター1本でやってしまわなければならない。

その中でアコースティック・ギターは、簡易伴奏楽器としては

とても良く出来たものと思う。仮に8ビートに限定すれば

ドラムのスネアが刻む「ツツタツ、ツツタツ」という

2拍目と4拍目がアクセントになっている「アフタービート」を、

ギターの6本の弦で表現しなければならない。

このやり方が案外、教本に載っていず習得に苦労したものだ。

しかしギターで8ビートが出来るようになると実に楽しい。

何せロックンロールなのだから。8ビートは十代の

性のエネルギーそのもの、20世紀の生んだ最もシンプルでワイルドな

ビートの「詩」といってもいいだろう。


音楽と詩 ドクトルミキ 5


ビートに関して云えば1980年代から今日まで、

ポピュラー音楽の世界は16ビートの時代であると云える。

8ビートの「ツツタツ、ツツタツ」は同じタイム内に倍速になり、

16では「ツツツツ、タツツツ、ツツツツ、タツツツ」と刻まれるが、

いつしか8ビートと混合して「ツッツ、タッツカ、ツツツッ、タッツカ」

という早いテンポでも遅いテンポでも成立しやすいビートに成って行った。

極論すれば現在8ビートはロックビート、16ビートはダンスビートと云える。

実はブルースのブギからハネが取り去られて生まれた8ビートも、

その典型のロックンロールも、かっては典型的なダンス・ビートだったのだが、

今はダンスとして見れば古典なのはお分かりいただけるだろう。

どちらにせよ人はビートに踊り唄う。そしてひととき、心の苦しみを忘れる。

花火が夜空に上がった瞬間、僕らはこの世の憂さを忘れるが、

音楽のビートが消え、花火が消え我に返る時、せめて気を取り直してまた歩きだしたい。

僕にはいつも、音楽に顔を輝かせ踊る、大勢の人々のイメージがあるが、

何故か全ての音が消えて、心のスクリーンに全くの無音でその映像が映る。

それは僕に強烈な詩情を誘うのである。どんな音楽もそれを際立たせるのは

沈黙であり、音楽は沈黙の中で鳴り響く。音楽と詩の神秘の原点だと思う。


音楽と詩 ドクトルミキ 6


人前で楽器(ギター)を弾き唄う。それも自分で作った唄を。

考えたら変な事である。そこまでするのは100人の人間の内、1人くらいではないだろうか。

すると現在の地球人口が62憶としたら6200万人、ほぼ日本の人口の半数ほどの、

ギターを弾き自分の唄を唄う人々が居る勘定になる。

そしてもし、あなたがそんな人なら知っているだろう。

いかに人前でやってみるのは、想像と違い上手くいかないか。

地球上の6200万人の唄うたいは悩んでいる。

でもやめられないのである。

何故なら失敗を賭けても中々楽しいのである。自分が。(自分だけが(((^^;)

何故ならしつこく人前で唄ううちに知る時が来るのである。

時が透き通って凍りつき、冷たく酔う瞬間を。脳内麻薬の宇宙、生きる事の醍醐味を。

全ての芸事が時おり与えてくれる黄金を。(ああ~大げさ。)(((^_^;)

ところがその瞬間がいつ来るのか分からない。

しつこく続ける者のみに、それは思いもかけずに、やって来るのであった。

唄うたいはさまよい続ける。



音楽と詩 ドクトルミキ 7


何故人は唄うか。聞くところによると刑務所で

独房に入れられた囚人が最後に娯楽とするところは独唱だそうである。

この世が果てのない刑務所であるとするならば、個々の魂とう云う

独房内における娯楽の最後の砦が、唄うことではないだろうか。

というような比喩はさておき、ともかく人前で唄うという行為にも

スリリングな「詩」が存在する。それは「思いの外」という「詩」だ。

昨年末のあるライブで僕は自分たちのバンドで唄っていた。

それは死んだ自分の父親に関する唄で、「自分はあなたの子供であったに

過ぎないけれど、今は普通にそれを納得した」という内容の唄だった。

その唄を総勢7~8人で演奏してリフレインを唄った瞬間、世界は揺れ、

自分が揺れ、内側と外側に涙があふれた。歌詞とメロディと8ビートに

友人達の声が加わり、結果何かが変化して「思いの外」の「詩」が

僕の心を打ったのである。それは澄んだ水のしぶきのようだった。

自分の作った唄はその水しぶきを受けた、ただの器だった。

理由は今もよく分からない。ただ僕はものすごく嬉しかった。

・・どの唄い手も自分のために唄う。そして自分と聴衆がそれぞれ、

または同時に「思いの外」の「詩」に打たれる瞬間を恋焦がれて

いるのだと思う。


音楽と詩 ドクトルミキ 8


音楽には楽器が無くてはならない。

そして弾き語りにはギターが欠かせないし、僕はギターが好きだ。

19世紀にスペインのアントニオ・デ・トーレスが製作したギターが

現在のクラシックギターの原型だが、

フォークミュージックでは1833年にニューヨークへ移民した、

ドイツ人 クリスチャン・フレデリック・マーチンが、

現在のマーチン社の祖でいわゆるフォークギターが考案された。

楽器は不思議な事に製作者によって苦心の末生まれたとたん

完成形を備えている事が多い。

1950年代にレオ・フェンダーによって製作された

ブロード・キャスターやストラト・キャスターにしかり、

いにしえのバイオリンにしかり。

楽器はにんげんのたましいの形そのもののを表すかのように不思議に満ちている。

勿論その楽器が形をそなえて現れるまでの製作者の

苦心惨憺はあったに違いないが、

生まれる事は必然であり、形や機能は予見されていたかのようである。

それはミシン油の匂いのする棚に、随分昔から陳列されていた奇妙な箱を開けてみたら、

オレンジ色のランプの光に照らされて、各々の楽器が入っていたと云わんばかりである。



音楽と詩 ドクトルミキ 9


自分が若い頃も今も敬愛しているフォークシンガーに

現在オーストラリア在住の田中研二さんがいる。

その田中研二さんの使用していたギター、マーチンD18がまぶしかった。

これ以上無いというほどシンプルなデザインに、マホガニー材の胴から来る

乾いて枯れた音色に惹かれて1979年の夏、20才だった僕は

阿倍野にあった三木楽器で新品のD18を買った。

当時の定価28万円はバイトの時給が380円だった頃、とんでもなく高価だった。

京橋の米田米穀という米屋で2週間バイトして頭金の5万円を貯めて、

残りは7400円の24回払い、計227600円也を月賦で支払い、

D18は若かった僕のギターになった。暑い8月の終わりの事だった。

D18は地味なギターだが、鈴のように鳴ってくれて今も僕の一番の伴侶だ。

D28も買ったし外のギターも色々持ってはいるが、自分の唄にはD18が合っている気がする。

D18は口数が少なくて飾り気の無い質素な美女だ。

1930年から作られ続け、今も新しいD18が生み出されている。

ノーマン・ブレイクは「D18の唄」という唄まで唄っている。

良いフォークギターは僕には音楽と詩の母体のように感じられるのだ。


音楽と詩 ドクトルミキ 10 


唄を作る時に、先ず歌詞を先に書くのだが、これは昔の友人から学んだ方法だ。

少年時代、歌詞とメロディを、ギターを弾きながら同時に作っていた。

すると、頭のひとかたまりは調子が良いが後が続かなかった。

人と会って、挨拶をして、その後の会話が続かない感じである。

それよりもその人への用件をまとめ、挨拶をしに行った方が良い。

つまり、例えるとそんなこんなで歌詞を先に書く事に昔決めた。

先ず思いついた言葉や云いたい事を携帯電話のメールにして、

自分のパソコンに送っておく。そしてパソコンを開き歌詞をまとめる。

歌詞が完成していよいよ唄にしたくなったらギターを取り出し、録音を始める。

だから僕にとってフォークギターは音楽と詩を繋ぐ道具と云える。

歌詞にメロディが付け始めると、心の中のピンボールマシンが動き始め、

言葉の銀色のボールが回転羽根やらスイッチにあたり、ピカピカ光り

メリーゴーランドやら、ハーディーガーディーが回ったり鳴ったりして、

唄が完成する。この間はかなりワクワクするし心も頭もフル回転である。

それから何回も録音してみてそれを自分で聴き批評する。

結果、没になることもある。意気消沈する。でもそれはそれで勉強になる。

またその新曲の採用を自分で決まると、ライブで唄ってみる。

その先が中々興味深い道のりになるのである。ライブの舞台の奥に、

見知らぬ森やら海やら路地裏への通路が開けるのだった。



音楽と詩 ドクトルミキ 11 


昔 高校時代に中川イサトさんと村上律さんの「フォーク・ギター」という、

二枚組LPレコードのギター教則本で練習をした。

裏表4面の盤面が「コードストローク奏法」「アルペジオ奏法」

「スリーフィンガー奏法」「カーターファミリー奏法」に分けられており、

フォークギターはこの4つの奏法を習得し、組み合わせて演奏すると楽しい事が

よく分かるという構成になっていた。

と同時に各奏法の練習曲がまた素晴らしく、

はっぴぃえんどの「12月の雨の日」、高田渡の「おなじみの短い手紙」「自転車にのって」

中川五郎訳詞の「ミスターボージャングル」などがあり、大変心惹かれた。

さて前回書いたように、唄作りが終わると自分のフォークギターで伴奏しながら唄を練習するのだが、

当初のイメージと違う伴奏方を試し、唄がより良くならないか試行錯誤の期間もまた始まる。

今のJ-POPでは殆ど「コードストローク奏法」「アルペジオ奏法」の二つしか使われていないが、

「スリーフィンガー奏法」「カーターファミリー奏法」を使えるのはアレンジの時、

大きなアドバンテージになる。

それがために自分はフォークシンガーやなあとも最近強く思う。

何故ならフォークとは元来アメリカン・フォークのことで、

「スリーフィンガー奏法」「カーターファミリー奏法」もアメリカン・フォークならではの奏法なのだ。

アメリカは多種多様な移民の国であり、そこで民衆が編み出した独特なギター奏法は、

またアメリカを出て唄う者の役に立つ。人は人の役に立つために生まれて来るのである。

ということを音楽の神はまたまた詩のように奏でるのであった。


音楽と詩 ドクトルミキ  12


さて自分で作った唄がライブで唄われるとどうなるか。

まだ誰も知らない新しい唄の誕生である。

実を言うとその唄が売れるとか売れないとか何も考えない。

元より売る算段さえ無いのだから無理もない。

ただ自分にとって好きか嫌いか感じながら、考えながら唄う事になる。

感じる事と考える事のバランスが大切だ。

若い頃は感じるばかりでかなり失敗した。

唄に対する年季に関して云えば、完成してライブで唄われてからの反応が

大体予測通りになることが多くなった。

考える事はまさに重用だ。考える事自体の訓練も要るし、

考えようという姿勢を保ち続ける事も必要だ。

そして「唄」の「詩」の具現化こそは感じる事と、

考える事のバランスによって成り立つと思われるのだ。

ライブ会場の闇は多くの曖昧なもので成り立っており、一筋縄では行かない。

そこに自分の作った唄をたもとに入れて立ちギターを弾いて唄う。

生々しいその感覚はあまりに鮮やかな暗闇であり、無数の飛び立つ鳩であり

落胆であり羞恥であり絶叫であり歓喜であり万華鏡であり一つの点なのである。


音楽と詩  ドクトルミキ 13 


ギターを弾く楽しみを十分に味わうには、これまたひたす らの鍛練しかない、

と言うことを思い知った永の月日だった。

一番練習したのは 30 代から 40 代だが、最近は暫く練習 出来なくてもライブでは

大体ヘマをしないようになった。

中川イサトさんにお聞きしたら一ヶ月ギターに触らない時 もあるそうだ。

「もう嫌になるほど弾いたからね」とイサトさんは呟かれた。

永年連れ添った夫婦のごとし。

実はさほどヘマをしなくなってからの、少しの練習が大切 と感じている。

細かな修整に調整。それが出来るようになるために、若い 日々から中年にかけて、

恋も仕事もかなぐり捨て練習に励 み、技術とソウルの貯金を成してから

貯金の利子に新しい 考察とニュアンスを加える。

よく基本的な演奏が出来ないまま、練習を怠ってライブを 迎える人を見るが、

綱渡りから落下し怪我をするのは本人 である。

僕も昔何度も何度も落ちた。だから辛くても練習し なければならないことを知った。

いやなに、全ては楽しむ ためなのである。 あと1つ言えるとするならば、

自分が出している音を聴ける ように成ることが本当に大切だ。

これからもギターの練習を隙を見て続けるのであった。 出来るならば長い詩を書くように。 


音楽と詩 ドクトルミキ 14 


「音楽は宇宙最高の愛だ」とジャズ・ギタリストのパット・マルチーニは云ったそうである。

様々な音楽がある。これまで語ったように演奏には修行が要る。

しかし聴くにもまた修行がいる。各個人のたましいにとって本当に気持ちのよい音楽は何か。

その前に音楽がたいへん好き、という前提が要るとは思う読者が大変音楽好きとして書こう。

各個人にとってちょっと聴いて心地の良い音楽ばかりが良い音楽とは限らない。

居酒屋に入って普段食べた事のないナマコの酢の物を何かのきっかけで食べたら好きになった、

というような経験はおありだろう。ある時点から世界は大きく変わるのである。

自分で云うと高校の始めに、ある女の子に手ひどくふられたのがきっかけだった。

それまで聴くと気持ちよかった唄がアホらしくなり、よく分からなかった唄が完全に気持ちよくなった。

それは突然ではなくかなり前から兆候はあって、

きっかけは友部正人の「一本道」というシングル盤だった。

中学の友人が今里の新橋通りのレコード屋で買って来て貸してくれたのである。

最初は変わった唄い方や歌詞にとまどった。でも当時は娯楽が少なかった。

分かるまでしつこくレコードを聴いた。

「ふと後ろを振り返ると/そこには夕焼けがありました/本当に何年ぶりの事/

そこには夕焼けがありました」

味わっていたこの歌詞が三日ほどの後、風呂場の湯船に片足を漬けたとたん、

何と全身に染み渡ったのである。

そこから自分の変化が始まった。

高校に入って最初の失恋をするまで其の変化は僕の内部でドミノのように

ゆっくりと続くのだが、その辺りはまた次回以降書いて行こうと思う次第です。


音楽と詩 ドクトルミキ 15 


中学の時の修学旅行は関東への旅行だったが、徹底して雨にたたられた。

帰路に新幹線が富士山の見えないところまで西に走った頃 晴天になった。

それはそれで思い出だが、もう一つ忘れられないのが、何処か関東の山中、

走る観光バスの雨の窓に頭を付けて、普段は素行不良(いわゆる悪ガキ)

の級友が「あなたは~もう~忘れたかしら~」と、

当時流行っていた「神田川」をひとり何度も口ずさんで居た事だ。

(なんや、こいつ案外ヤワやねんなあ)と苦笑してしまった。

普段カツアゲするような奴でも、甘い感傷の歌詞とメロディには

陶然となってしまったらしいことが意外で可笑しかった。

当時、僕は前回書いた友部正人の「一本道」のせいで、心が化学変化を

起こし始めていて、一般的な感傷の世界と折り合わなくなって来ていたのだ。

「神田川」の歌詞もメロディも抒情歌謡として良く出来ていると思う。

けど、あの唄の中の男はやがてふとした別の欲情で、この女を裏切るだろう、

そんな予感がしてアホらしいと思った。

今となれば感傷は扱いづらい感情であり、唄にするときは注意がいると

僕は思うのである。

感傷は無垢な心にはしみ込み易いところが危ないのだ。

あの頃から僕は逆に、現実性をぶつけても壊れない唄に憧れ始めていたのだ。

けれどそれはイバラの道の始まり、世間から逸れて行く道の始まりだった。

とはいえ中学生の頃は僕も「神田川」でBmのコードを練習し、母親の前で唄い

「あなたの優しさがこわかった」ゆうのがええね、という母の感想に

まんざらでも無かったりしたのだった。(^^;)



音楽と詩 ドクトルミキ 16


前々回で高校時代、ある女の子に手ひどくふられたのがきっかけで

音楽観やら世界観が変わったというような事を書いた。

失恋なんて似たようなものなので、詳しくは書かないが

それこそ、キャット・スティーブンス作の「The First Cut Is The Deepst

であった。飲めもしない酒をがぶ飲みして、反吐まみれになり、

布団の中で情けなく号泣した。自分をあっさりフった女の子を恨んだ。

(はずかし。)ギターをかきむしり、同じ路地裏を歩き回った。

そしたらしまいに涙が出なくなり、ふてぶてしい何かがこみ上げて来た。

アホラシイ気持ち、笑えるようなブルーな気持ち。粘土のような味。

すると友人が聴かせてくれるミシシッピ・ジョンハートやロバート・ジョンソンや、

スリーピー・ジョン・エステスがフレンドリーになり、

ボブ・ディランの唄がさらに気持ちよくなった。ザラザラした風を顔と髪に浴びた。

どうやら中学の時、ハマッた友部正人の「一本道」から始まった自分内部の化学変化が、

妙な色の卵を徐々に膨らまし、ここに来てボコッと割れたのだった。

今思えば友部正人の「一本道」は変形のブルースだったように思う。

泣いても仕方の無い物。ラングストン・ヒューズが書いたように、

「ブルースとは、泣くには可笑しく、笑うには悲しいもの」で、それは

アメリカの綿畑で黒人が生み出し、世界に伝播して、声やビートや旋律やサウンドで

些細なしかし、やりきれない憂さも晴らす魔法になったのだった。

8ビートにノッてロックになり、スリーフィンガーにのりフォークになり、

その他もろもろ、現実をぶつけても強靭なある種の防御壁になり、

ある暗い雨の朝、カビ臭い壁にかかったギターを愛犬のように眺めて

フォーク少年ドクトルミキの旅は始まったのであった。(困ったもんだ。))^^;)



音楽と詩 ドクトルミキ 17


過日、寝床で物音を聴いていると

80を過ぎた自分の母親が自転車で買い物から帰って来た声がする。

近所の人に機嫌良く受け応えしているのだが、その声がいつも晴れやかで若々しくて聞き惚れた。

そんな母に子どものころ、たった一度だけ唄をせがんだことがある。

「お母ちゃんはな、唄があかんねん。」母は困ったように答えたが、

子どものしつこさで自分はまたせがんだのだろう。結局、母は唄ってくれた。

決して下手では無かったし、何の唄かも忘れたのだが、

低めの母の唄声には恥じらいととまどいがこもっていて、

自分はそれ以後、母に唄をせがむ事は無くなった。母は唄う事を楽しめないようだった。


けれど往来での母の生き生きとした話し声は美しかった。

あれは母の心の若さと、心の晴れやかさがそのまま声に出ていたのだろう。

「お母ちゃんの声は若々しくてきれいな声やなあ」と晩年の母に二~三回言ったことがあるが、

その度に前に言われた事も忘れ「ほんま?そんなん思た事なかったわ!」と嬉しそうに応える母だった。


いろんな良い唄声を聴いた事はある。

けれど僕が知っている限りの人間の素晴らしい声は、

買い物帰りの自転車から降りた母の晴れやかな声だった。

その母も先月の末、85歳でこの世を去った。

母は最後の三ヶ月、晴れやかなあの声を失っていた。

声は生命の証だとつくづく思う。

そして僕らはいつまで生き生きと唄える だろうか。明るく話せるだろうか。



音楽と詩 ドクトルミキ 18 


いつか中之島の図書館かどこかで読んだ黒田三郎の詩「夕暮れ」が、

いつまでも心に残った。本当に夕暮れ時に読んだ詩だった。

詩は時に一度読んだだけで心の一番奥に住み着く。

ビヤホールで一人、1時間かそこら居る男の事を書いた詩である。

酒が好きで、ものを思う時間を持つ事を好む者ならばその詩情は用意に理解できるだろう。

それなのに高田渡の名曲「夕暮れ」が黒田三郎の詩が元になっていると長く気づかなかった。

ここに詩と音楽のささやかな違いがある気がする。

それは黒田三郎の詩集の、ベージュがかった紙の上に活字で描かれた「夕暮れ」の佇まいが、

静けさに満ちており高田渡の「夕暮れ」が彼の声の暖かさと音楽の力でやはり静かなのだが、

一種の可愛らしさを抱いている事から来ているのだろうか。

文字の詩には基本的に救いは無い。救いを描く事は可能だが、

救いが無い事自体が潔く透明な救いになっている気がする。

しかし音楽はそれ自体が救いのようなものである。

高田渡はアメリカの民謡と日本の詩人の詩を合成するという作業を

長く続けた人である。山之口獏や金子光晴の詩も多くアメリカ民謡と結婚させている。

ただ「夕暮れ」では途中で高田渡の言葉も挿入している。

これは音楽の歌として書かれていない「詩」を

音楽の歌として成立させる上で仕方の無い事だが、若干高田渡の矜持も含まれているのだろう。

「厚板ガラス」というような言葉は高田渡の面目躍如なのである。

音楽と詩の結婚についてはなかなか考えがいがあると思う。

またしばらく書いていけたらと思っています。



音楽と詩 ドクトルミキ 19  


独りの時ギターを手にすると、たいてい高田渡や田中研二の曲を弾き唄っている。

伝統的なスリーフィンガーやカーターファミリーピッキングで唄うのが自分にはいつも楽しい。

昨日も元の唄がミシシッピ・ジョン・ハートの「マイ・クリオール・ベル」に

山之口獏の詩を乗せた高田渡の「告別式」をさんざん唄ってから、音太小屋に行くとなんと偶然、

芳賀まさひろくんが「マイ・クリオール・ベル」を弾いているのが聴こえてきて嬉しくなり、

思わず一緒に演奏してしまった。

山之口獏の「告別式」という詩は自分が死んでしまい あの世に行くと、

父親がお盆のお供えが無かったとむくれていて、

それをなだめてはみるのだが 結局人間は死んでも性根が治らん、

と苦笑してしまうという内容の詩である。

抑制され知性とユーモアで縁取られ、山之口獏の詩は何とも透明感のある文学作品になっている。

高田渡がそれをアメリカのフォークブルースのメロディと結婚させた方の「告別式」は

その上になんとも云えない皮肉と、ユーモアが乗せられ楽しめる。おちょくりを見事な芸にしたというか、落語に通じるものがあると思う。

最初に聴いたのは高校時代、高田渡のセカンドアルバム「系図」を買った時だが、

「お金ばかりを借りて/歩きまわってるうちに/ある日ぼくは死んでしまったのだ」

といきなり本人が死んでしまう唄の内容にたまげたが、

「あなたはもう忘れたかしら」だの「ああ君がどうしてこうして~」だの、

甘ったるいフォークに疑いの眼差しを向け始めてた頃だった自分には最高に痛快だった。

要は唄の世界は自由でいきなり貧乏のうちに死んでしまっても問題ないし、

あの世で苦々しい気持ちであぐらをかいていても良いのである。

これはいいなと思い、屈折したフォーク少年は少しだけ救われたものである。

しかもかなり後で気がついてヤラレタと思ったのが、

同じ「系図」に入っている金子光晴の詩を唄う「69」がほとんど同じメロディなのである。

あはは。(^^;)

学校では人をおちょくってはイケマセンと教えられてきたが、

生き抜くためにおちょくりの技術を磨くのは芸能としては乙なものなのである。

(追記:「告別式」はミシシッピ・ジョン・ハートの「リッチランド・ウーマン」

「69」はやはりミシシッピ・ジョン・ハートの「マイ・クリオール・ベル」が元のメロディだが、

この曲がメロディもコードも殆ど同じなのでした。)


音楽と詩 ドクトルミキ 20


高田渡の名曲「ブラザー軒」は詩人・菅原克己の詩にアメリカ民謡をあてたものであるが

はとばかり気づくと「鮪と鰯」と似たメロディだったりするのである。

なんだかなあとは思うものの、この場合民謡のメロディは料理を載せる皿になり

山之口獏の「鮪と鰯」のときのように実にいい仕事をすると分からされる。

「東一番丁ブラザー軒/硝子簾がキラキラ波うち/あたりいちめん氷を噛む音」

がらすのれんとはいかなものなのだろう。素敵な響き、かつなんとなく悲しい。

「死んだおやじが入ってくる/死んだ妹をつれて/氷水を食べに/ぼくのわきへ」

いきなり死者の幻影が現れる。ここで現実はぐらりと捩じれているのだが、

アメリカ民謡のおだやかなメロディは奇をてらわない落ち着きの効果を正しく示す。

「色あせたメリンスの着物/おできいっぱいつけた妹/ミルクセーキの音に/

びっくりしながら/細い脛だして/椅子にずり上る」

この死者は第二次大戦の空襲で亡くなった無辜の町民なのだろうか。

人は必ず死ぬが、声にならぬ叫びを叫ばず叫んでいるかのような描写だ。

そしてその時「外は濃藍色のたなばたの夜」なのである。

詩人・菅原克己と高田渡の仕事は味わい深い唄になり、この唄を聴くものを

束の間、東一番丁ブラザー軒に連れて行く。

東一番丁ブラザー軒へ行きたくなった人も、この唄を聴けばすぐに硝子簾の扉を開かれるのである。

唄は幻影である。しかし美しい幻影は人の心を慰める。慰めという行為は中々難しいのである。

硬質な叙情の詩に音楽は祝祭を与える可能性がある。なまなかでは出来ないことなのである。

高田渡は生涯それに没頭し、旅路の果てで日々を終えた。

友部正人の唄によると霊柩車が斎場へ走り出す時、葬儀に集まった人々から拍手が起こったそうである。日だまりの中の最後のカーテンコールだった。


 

 音楽と詩 ドクトルミキ 21  


先日の明け方、地震があった。淡路島が震源で大阪はかなりガタガタ揺れた。

その日は僕が講師をしている音太小屋ギター教室の発表会の日だったから、すわ中止か?

とさらにドキドキしたが、事なきを得て予定通り発表会ライブは開催された。

朝9時頃に寝不足で家を出て天王寺から環状線に乗ると、地震の影響から

電車は遅れ満員だった。電車の扉が開き乗客がなだれ込んでくる。

其の時、ふと思った。このたくさんの人々が全て赤ん坊として生まれ、両親や親戚は殆どそれを寿ぎ、

成長のアルバムが編まれ、教育を受け、個人のあるいは家族の喜びや哀しみを抱いていると。

人というものは他人の群れの中に居る時は無表情で、

どちらかと云えば不機嫌ないしほんのり悲しげな表情をしているものである。

押し合いへし合いなのだから顔をしかめている人もいるくらいである。 

個々の内面は勿論お互いにわからないまま、それでも確実に内面を保持したたくさんの

かって祝福された他人同士は、ほとんど無口で電車に押し込まれ進んで行く。

そういった関係を僕は唄いたくなる。電車の窓からは葉桜になった桜宮公園が行き過ぎる。

そういった光景を僕は唄いたくなる。音楽と詩を結びつけるきっかけは実は

音楽も詩も無いところから思いがけなくやって来るのだ。

音太小屋につくと寝不足のまま発表会の準備をして、たくさんの演奏が始まった。

ふと気づくと自分のiPhoneがない。iPhoneの画面を見た記憶が無いから家に忘れた・・

のだと思って深夜に疲れて帰宅した。ところが家にもiPhoneは無かった。

結局、音太小屋の音響ミキサーの後ろにiPhoneは落ちていたのだった。

戻って来たiPhoneには僕自身や生徒さんからの留守電が入っていた。

発表会ライブの終わった真っ暗な会場の機械の隙間で、

iPhoneは誰にも見られぬまま光り、震えていたのだろう。

あの満員電車の中の他人同士の、窺い知れぬ心のように。   


音楽と詩 ドクトルミキ 22


当たり前の話なのだが音楽は大概の人は音を聴いている。

メロディ、声、リズム、響き。あとはLIVEならば観た目の良し悪しによって

演者を見つめたり見つめなかったりもあるだろう。では歌詞はどれぐらい聴いて

いるだろう。僕が思うのは歌詞を書いた本人以上には聴かれている事は少ない気がする。

僕が惹かれたのは初めは洋楽のポップスやロックやフォークだったから、

英語の歌詞の意味はほとんど分からなかった。

でも人の声で何かが唄われているということはいつも気になった。

僕が幼児の頃、父はが英語のポップスの意味を訳してよく教えてくれた。

ナット・キング・コールの「プリテンド」という唄が好きでよく父にレコード(SP)を

かけてとせがんだが、その歌詞の意味が子供の僕には衝撃的だった。

「もしもあなたががつらい気持ちなら/まるで幸せであるかのように

笑顔をうかべてごらんなさい/そうすれば本当の幸せが/きっとあなたに訪れるでしょう」

子供の僕は(つらいのに笑顔でいるなんて僕にはようせんわ、何か生きるのてめっちゃつらいやん)

と泣きそうになった。でも唄の歌詞には秘密が込められている時がある、と思うようになった。

思春期が訪れると日本語のフォークに惹かれたのはその秘密が

日本語ゆえにダイレクトに分かるからだった。

友部正人、井上陽水、高田渡、田中研二、朝比奈逸人、シバ そして友人の橋本裕。

下を向いて成長の痛みに耐えるしかなくても、自分が見つけた秘密をそっと唄いたい。

それが僕の昔からの変わらぬ願いだった。しかしそれはやはり中々難しい事なのであった。


音楽と詩 23 ドクトルミキ


ちなみに自分が楽器巧者でどんなメロディも弾きこなせたとしたら、

ピアノやバイオリンやアコーディオンやトランペットなども演奏出来たなら、

果たして人生の秘密を歌詞に込めて唄おうとしただろうか?と考える事がある。

フェデリコ・フェリーニの初期の映画に「青春群像」という作品がある。

そのテーマ曲はニーノ・ロータが書いているのだが、素晴らしく美しい。

映画はイタリアの地方都市で一歩を踏み出せないでいる若者が

アホなことばかししている日常を描いているのだが、

一つのエピソードが結実する時に流れる「ミレミドレシ」から始まる旋律は深く胸を打つ。

様々の痛み、哀しみ、赦し、切なさ、が一挙に胸一杯になり心が震えるのであるが、

自分が唄わない楽器演奏者ならばこのメロディだけを演奏できれば十分満足だろうと思う。

そのメロディはまるで「愛」のようなのである。

けれど僕のギターは唄の伴奏でしかない。すると僕は素晴らしいメロディを知るたびに、

そのメロディに歌詞をつけ唄いたくなる。

そうしないと自分にとって音楽の「詩」を完遂できないからなのだ。

その歌詞にはメロディに釣り合う深い「秘密」を持たせたい。

自分の中にはまだ出来上がらない「秘密」のかけらがたくさん散らばっていて

「はよせなあかんで」と僕をせかすのであるが、

自分の才能の限界と向き合うのはかなり辛いことだと思う。

ちなみにフェリー二監督の「青春群像」の次作があのジェルソミーナとザンパノの悲しい旅路の物語「道」であり、ジェルソミーナが劇中トランペットで吹いたのが有名な

「ジェルソミーナ」のテーマである。若かった僕はそのメロディに歌詞をつけ唄ってみたりしたが、

結局上手くはいかなかった。特別に美しいメロディはそれのみで女神のごとき「詩」であり、

僕を陶然とさせると同時に孤独に落とすのだった。


音楽と詩 ドクトルミキ 24  


瞬間が生き方を決める事がある。

あれは中学生の頃、学校に丸刈り頭を強制させられていた頃、夕方銭湯へ行った。

高い位置に置いてあるテレビに、長い髪の若い男が決して美しくない声で

ギターを弾きながら椅子に座り、唄うのが映っていたのである。

「僕はあれをしよう。ギターを弾いて唄う人になろう。」僕は突如、そう決心した。

別に重い衝撃がある訳でもなく、ただそこにあった林檎か何かを

ポケットに静かにいれるかのようにそう思ったのである。

過剰な自意識に青い顔をしていたあの頃、自分が封じ込められた肉体に辟易して

自分以外の何かに成る事を夢見ていた自分は、その筋道を瞬間的に知った。

音楽は元々好きだったし、ギターの練習を初めていたのかいなかったか分からないが

銭湯から帰ってきた自分はその時から変化して羽化を始めたのだろう。

けどあのテレビの男が誰だったか、何を唄っていたかはさっぱり思い出せないのである。

ただ暗闇の中でライトを浴びた男の長い髪の輪郭が光っていたのを覚えている。

その後近所の高校の文化祭のフォークソング部の発表会などへあしげく通い、

同じように暗がりで光を浴び唄う、自分より少し年長の少年少女の姿を観るたびに

自分の確信は深まって行った。根拠は全くないというのに。

一つ言える事がある。自分は決して他人にはなれない。

その事をあの頃は全理解してはいなかった。けれど林檎の芯のような自分の

周りの果肉を変化させる事は出来る。その魔法がギターを弾き、唄を作り唄う事だった。

 

多分、生まれる前から決まっていた決心のような気がするのだがどうなのだろう。