掌の遠国(てのひらのえんごく)1「時計屋でパンを買う」


























(昨年夏、ドクトルミキ写す。パンを売ってた時計屋さん。今は空き家のような感じでした。)

♫時計屋でパンを買う♫

子供の頃 1960年代  
時計屋さんでパンを買った。 
僕の住んでいた大阪生野区の実家のあたりだけやけど。 

もう一軒のパン屋さんは子供の足には若干距離があり 
時計屋さんの方は 実家から3軒目の 
タバコ屋さんの角を曲がって10メートルくらいなので 
近くて良かった。 

母にパンを買ってくるように云われると 
自分としては風のように時計屋さんに走って行った。 
たぶんコロコロと走って行ったのだろう。 

時計屋さんのガラス戸をがらがらと開けると 
真向かいに時計屋のはげ頭のおじさん。 
戸の横手には小柄なおばちゃんが居て 
ガラスケースにパンが並べてあった。 

はげ頭のおじさんは片目に拡大鏡をはめて 
時計の修理をしている事が多かった。 
そのおじさんの奥さんのおばちゃんは 
色白の優しい声のおばちゃんだった。 

ガラスケースの中には、小さな富士山みたいなパンや 
イチゴジャムやチョコレートや白いクリームの入った 
巻貝のような形のコロネや 
野球のミットみたいな 
漫画の手のひらみたいなジャムパンが並んでいた。 

母のお使いはたいてい食パンだったけど 
何か自分の欲しいのを買っても良い事になってて 
たいていコロネを買ったと思う。 

巻貝形のコロネのイチゴジャムがのぞく穴には 
小さな四角いパラフィン紙がペトっと貼ってあり 
夢の国のオブジェのようでもあった。 

その穴からジャムだけ吸ったりしていると 
「これ パンも食べなさい」と母に注意された。 

パンの他にうどんやおそばの麺も売っていたっけ。 
小柄なおばちゃんはいつも笑顔で 
それは今思えば、子供好きの優しい笑顔だった。 

時計屋さんの息子さんが結婚して 
時計屋さんの二階に一緒に住むようになり 
家計の足しにするためにパンを置いたのが 
なかなか好評だったらしい。 

だから僕らの近所の人はみんな 
時計屋さんでパンを買っていた。 

一度お客さんが来て、母が僕に 
「時計屋さん行って パンこうといでー。」 
と云ったら、お客さんが「ええ?」と驚いていたなあ。 

コンビニも携帯電話もなかったあの頃。 
でも 今ではもう無いことがたくさん息づいていた。 

記憶の中の日差しは濃密で 
車通りの多かった実家の周辺の物音を 
今もありありと思い出すのだった。