千代さんの随筆

僕の母、篠原千代は昭和二年の五月一日生まれでした。八十五年の生涯は朗らかで明るい善き人生でした。趣味は裁縫と短歌と随筆でしたが、そのうち母の書いた随筆を 二編ご紹介いたします。(^^)/

  おつかい   篠原千代

 私が育った昭和初期には一家に子供の数は多かった。
私も五人兄弟であった。その頃の母親はよく働いた。
洗濯機などなかったので、盥で「ゴシゴシ」が普通の事であった。
子供の着る物も母が縫っていた。
そのために子供はよくお使いに行かされ、私の小学校低学年の頃には、
夕方になるとよく「おとうふ買いに行って来てー」
母の言いつけで、小さな鍋を持って近くの豆腐屋に行った。
昔の豆腐屋のおばちゃんは、優しい笑みを見せて
「おとうふは木綿か、絹ごしにするのんか」と聞いてくる
「木綿を一丁、奴に切って」と言う
 水を張った大きな木製の箱に、沢山の豆腐が浮んでいて、
おばちゃんは上手にすくい上げて、渡してある横板の上に豆腐をおくと、
真鍮色の大きな豆腐用の庖丁で、手早くチョン、チョン、と
一丁を十切位の大きさに切ってくれる。
「おつゆにして」と言うと小さな角に切って、持って行った鍋に少し水を入れ、
切った豆腐を入れてくれる。
「おばちゃん、薄揚も二枚」と言うと
 新聞紙を切って吊してあるところに、手を伸ばしてパッと一枚とって、
三角の薄揚げを二枚くるくると新聞紙に巻いて渡してくれる。
 お金を渡しながら、豆腐屋のおばちゃんの手は、
きれいやけど何だかふやけている気がすると思っていた。
 
ある日兄がお使いを言いつけられて、何故か私もついて行くことになった。
今もある源八橋近くの、このあたり一帯の地主の家ではなかったらうか。
風呂敷に包まれた四角なものを届けにゆく用事であった。
兄は五年生位だった気がするのだが、三つ年下の私は、兄を見上げるように大きく思えた。
お使い先では「こんにちは」と挨拶をはっきり言うこと、行儀よくすること、
何度も言い聞かされて、子供心はいやが上にも緊張していた。
私の家から歩いて二十分はかかる、子供にとっては、遠い道であったようだ。
立派な玄関に入った。出て来た身綺麗なおばさまに、兄が教えられた様に、風呂敷包みを渡すと、
「ちょっと待ってて、おくなーれや」身のこなしも、しとやかに奥に入って行った。
暫く待って持って行った風呂敷を折りたたんで、おばさまが出て来た。
風呂敷の上には白い半紙に包んだお菓子らしきものが乗っていた。
兄と私の手に一つずつ手渡してくれた。

「おおきにー」と「さよなら」を母に言われた通りに言って、
玄関の外に出た時兄は私の顔を見て二ーツと笑った。
役目を無事に終えたことと、お菓子を貰った喜びと、緊張感は一気にほぐれて行った。
 あの頃天満紡績と言う会社があった。赤い煉瓦造りの建物の見える塀の外を歩きながら、
兄は貰った半紙包みを開いて、パクパク食べはじめた。
「ちょっと食べてみい、おいしいでえ」と言ったが私は
「お母ちゃんに見せてから食べるー」と言ったような気がする。
私も半紙を開いて見た。今の時代で言うと、かわみち屋の蕎麦ぼうろに似た、
形は違うが上品なお菓子で、子沢山の我が家では仲々、買って貰えないようなものだった。
私一人のものだ。大事にしたかった。中味を何度もたしかめた。
その頃の兄は育ち盛りだったようで、自分の包みを食べ終ると、
ヒヨイと私の包みに手を伸して、一つ取って自分の口に入れてしまった。
私は泣いた。
 
 私の通った小学校は、大阪市北区同心町にあった。
その昔大阪城に登城する武士たちが住んだのは、今の造幣局のあたりであったと聞くが、
小学校のあたりは与力町同心町と並んでいて、与カ、同心、が住んでいた所と、
学校の先生に教わったことがある。
今は戦災で焼き払われ私の通った小学校はなくなり、ビルが立ち並んでいる。
 
その与カ町に小山薬局があった。よくお使いに行った。
私が高学年になった頃には、私が末っ子だったこともあり、今にしてわかるのだが、
母は更年期になっていたのだと思える。
私はよく小山薬局にサフランを買いに行かされた。
母に持たされた五十銭玉を渡して、薬袋に干したサフランの花を入れてくれる。
きれいな色の花だナ、と思ったものだが、今は料理のパエリアの色付けにも使っていると聞いた。
あの頃その花を煎じて、母は頭痛薬として飲んでいた。
時代の物価と考え合せて、高いものだったように思われる。
 
小山薬局の前は、天満公設市場で、衣料品店や、うどん屋、文房具屋、
菓子屋等立並び賑やかな下町風景で、薬袋を持った私は、商店街を抜けて淀川の支流に出る。
川の柵の頭を一つ一つ叩きながら家に帰ってゆく頃、
夕陽が斜めに射して、長い影を引いていたかもしれない。


「和江おばさん」      篠原千代

長女に手をとられるようにして
和江おばさんは姉と私の待っている部屋に入って来た。
私は胸が熱くなって涙が溢れそうになった。
五十年ぶりの再会であった。

意外に元気そうに見えたが今年八十八歳になった。
一別以来の話は沢山あるのに
何から話しはじめてよいのか
お互いとまどっていて、ぎこちなかった。

私が五歳位の時、和江おばさんは
大阪天満の隣家に嫁人りして来た人である。

その頃のことはよく覚えていない。
私の記憶に鮮明に浮び上るのは
今いる姉の上に、もう一人の姉がいて
小学五年生で死んで行った日のことなのであった。
 
私はどうやら隣家で眠っていたようだ。
末っ子の私は隣家に預けられて
和江おばさんが私を揺すぶって
「チヨちゃん、起きなさいよ。
啓子姉ちゃんが家に帰って来たんやよー」

しみじみとした云い方だった。
その意味は幼い私には分らなかったが
異常な意味は何となく汲み取っていた。

北野病院で亡くなった、姉の遺体が家に帰って来たと、云うことであった。
若妻であった和江おばさんに、背負われて家の外に出た。
夜空にいっぱいの星が光っていた。
地蔵盆の夜のことであった。
 
私が小学校に上って、低学年の頃学校から帰ってくると
おやつを持って、和江おばさんのいる隣家に行った。
和江おばさんは二人の子持ちになっていて
質素だがきちんと片づいた家で、縫い物をしていた。
今の時代と違って、家族の着るものは
母親が全部仕立てた時代であった。

子供の着物をセッセと縫いながら
いろんなことを話し聞かせて貰った。
決して口数の多い人ではなかったのに
話の切れがよくて、子供の私にもよくわかったし、たのしかった。

働きものでキビキビとした動作だった。
和江おばさんは、小学生の頃母親が亡くなったこと
小学校ではいつも優等賞をもらったということ、
兵庫県の山間に伝わる恐い話、一寸した笑い話等も次々に聞いた。

唯一つ覚えている話は
「ある日ミヨちゃんは、
お母さんにだんごを五つ買つてくるように云われました。
ミヨちゃんは、だんごを五つだんごを五つ、
と云いながら歩いてゆきました。
忘れては、いけないと思うてたんやね。
どんどん歩いてゆきました。

道の真ン中に大きな石が落ちていて、
その上を<どっこいしょ!>と飛び越しました。
その時ミョちゃんは、だんごを忘れて
<どっこいしょ、どっこいしょ>と云って歩きました。
お店屋さんに着いた時に、ミヨちゃん
は<どっこいしょ下さーい>と、云ったよ」
 
私は笑い転げて、この話を何度もおねだりして
「チヨちゃん、またかいなー」
と云われたことを覚えている。

テレビのない時代で、雑誌は一月に一度買って貰うのを
むさぼるように読んでいた時代であった。
私の孫が五歳位の頃に、この話を
聞かせてやったら、面白がって喜んだ。
 
和江おばさんに四人目の子供が産れた頃、
おばさんの夫が、結核になって、病状は進んで行った。
兵庫県の西脇に近い山村に、引っ越して行った。
そこがおばさん夫婦の故郷であった。
和江おばさんは六人の子持ちになっていた。
 
姉と私は毎年夏休みになると、その山村に一週間程遊ばせて貰った。
お祖父さんもお祖母さんもいて、和江おばさんの夫は離れの二階に寝ていた。

お祖父さんは養鶏場を持っていて、毎朝沢山の玉子を集めるのに、
従いて歩いた。藁草履の作り方も教えてもらった。
家の前にはは蒟蒻の畑があり、畑の向うには川が流れていた。
川の水は冷くて、水浴びもして遊んだ。

和江おばさんは村にある製材所で
男の人のような働きをしていた。
大東亜戦争が終る一年前位に夫は亡くなった。
夫の両親を抱え、六人の子供との生活は、製材所の働きで支えられたが
戦後の生活は想像を越えるものであった様子で
戦後長女は私の実家で働き、次男は私の兄の会社で働くようになった。
 
和江おばさんの次女の婚家先
柏原の家に車で連れて来たと、電話があった。
姉と私は柏原まで取りあえず、馳けつけた。
少し足が弱っているが、子供たちに労わられている生活は
おばさんの表情からよく伝わって来た。

日本の母親なのだと云う思いはして、
いろんなことを、乗り起えて来た人の表情は、
思いのほか爽やかで、童女のように無邪気に見えた。
頭もしっかりしている。
 
「あのなあー、孫が十五人に、
ひ孫が十三人もいるんやわあー」と笑っている。
隣り同志に住んだと云っても、こんなに深いつながりを持てたのは
気が合っただけでは説明出来ない思いがする。
 
御馳走になって帰る時
和江おばさんが駅まで長女に手をとられて、送って来た。
姉も私も、和江おばさんに、いつまでも手を振っていた。

(追記:長女の方が美佐子さんといい、母が書いた様に昔 
今川の祖母の家にお手伝いさんで来られていて、僕はとても可愛がってもらいました。
その方は今80を越し岡山の津山におられます。
僕の母 千代が85で死んだ時、和江おばさんは何と100才を越してお元気でした。
ドクトルミキ)   
 

昭和29年・27才の母・千代。撮影は夫の篠原廣祐。僕の父です。