「早春の頃」
昨日やっているギター教室で生徒さんに釘煮をいただいた。
なんでも亡くなったお義母さんが毎年作られたそうで
今も引き継いで作ってご近所に配られてるそうです。
それで僕もご相伴にあずかれたのですが
帰宅後、晩酌の友に食べたらその美味しいこと。
生姜が良く効いて最高でした。
今晩はお茶漬けにせな!と思います。
イカナゴの釘煮は主に兵庫地方の早春の名物ですが
大阪の春の思い出はシラスのポン酢和え。
母はほうれん草と和えてかつお節もかけたりしてたな。
「もおシラスでてるでえ〜」と楽しそうな母と
小学生の僕は、春が来てメタン香る真っ黒な平野川沿いを
センダイ市場までのんびり歩いたものでした。
近所の公設市場でも買ったはずなのですが
公設市場の休みの日は少し遠いセンダイ市場へ行きました。
シラスと云えば何故か春の平野川沿いの思い出ばかり蘇る。
そのシラスも暖かくなるに連れ段々大きく成って来るのです。
それが終わると苺が出回り、やがて夏には西瓜・・と
昭和40年代の日々は季節の旬のものを楽しみ流れて行きました。
人生には苦しい事も多いけど、楽しみも多い。
人はいつも行っていることに、自然と喜びを感じるんでしょうね。
生涯に、たくさんあれを作った、食べた、人に分け与えた・・
それは他の人間にも追憶になり、絡み合い
それぞれの人の一生の厚みを積み上げていくんやなと
生姜のよく効いた釘煮を食べて飲みながら
酔って行く頭でぼんやり思ったりしたのでした。
「今夜はビフテキ!」
(↑天五・十八番の毎月18日のワンコイン定食。
サーロイン・ステーキがなんと500円です!。)
昨夜は久々にステーキを食べて
帰りの電車の中で昔を思い出してしまった。
子供の頃、ビフテキなんてものは多分
五年に一回もあれば良い御馳走だった。(^^;)
母の作るハンバーグは大好物で季節に一回はあったけど
ビフテキは家で食べられる頻度が極端に少なかった。
父の趣味は写真と8ミリフィルムでの動画撮影だったが
その8ミリフィルムで傑作なのがある。
従兄弟の洋子ちゃんが我が家に遊びに来るので今夜はビフテキ!
という夕方を撮影したものだ。
後年、そのフィルムを発見してまだ動く映写機で
一人上映してみたときは涙こぼれそうだった。
今夜はビフテキと云うのでウキウキ嬉しそうな我が家。
僕は丸刈り眼鏡の中学生。兄は長髪で眼鏡の大学生。
眼鏡の薬剤師の父は僕にシングルエイトの撮影機を任せ
自ら大根おろしをすっているところを撮らせている。
やはり眼鏡の母は恥ずかしそうに口をすぼめ笑っている。
そして従兄弟もかこみ皆でビフテキをおかずにご飯食べながら
TVにはプロレス中継。ジャイアント馬場が16文キック。
このフィルムをビデオにおろして兄や母にも見せた。
みんな笑いながら、幸福だった昔を思い出してた。
ビフテキをみんなで食べた夜をあとから観た
その事をまた昨日、電車の中で思い出した。
兄は還暦を過ぎ、今は割と肉食が多い。
父は僕が18の時に脳溢血で逝ってしまい
母ももう父の傍に行って四年になろうとしている。
従兄弟の洋子ちゃんも夫に先立たれ
今は老境にさしかかり元気で趣味のカラオケ三昧。
そして貧乏一人暮らしの僕は、ビフテキというと
あのフィルムに無音で写っていた遥か昔を思い出す。
家族で揃って食事をする。
普段の何気ない食事、たまのごちそう。
それが人間の普通の幸福でかけがいのないものと痛感する。
あれは父の最高傑作やったなあ。
「今夜はビフテキ!」
僕の心の中で昨夜も上映されたのでした。
「『フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト』が出来た夜」
1989年の8月の終わり頃
バイト先のある北浜地下の書店で立ち読みをしていた僕は
情報誌「エルマガジン」のライブ欄を見て、あれれとつぶやいた。
「Bハウス:9/1 ドクトルミキ」とある。
その頃、毎月一回 僕はベースのY君と組んで
「ドクトルミキバンド」名義でライブをやっていたが
9月の出演はもっと後のはずだった。
何かの間違いと思い、あわててBハウスのマスター Tさんに電話すると
「ごめんごめん、急に穴があいちゃってミキくんをいれたんやけど、
連絡するの忘れちゃってたんだよ~ 何とか頼むね~」とのこと。
自分は出られるが、組んでいるY君に聞いてみると
その日は無理だった。ひさしぶりのソロか。
まあええわ。ちょろいもんや。
後少しで31才になるその頃の僕は
自信過剰な割には、へこんでばかりいたのだが
性懲りも無くまた思うのだった。
「腕を見せたるわ~。!」
さて9/1。いつもの出演日は第2金曜だったか
第3金曜だったのだかは忘れたが
代演日の1日が金曜だったかまでは、実は覚えていない。
ただいつものように雨が降っていた。
(後記:調べたらやはり金曜だった。)
当時、工場の煙突が撒いた「煤煙」が、週末金曜あたりに
決まって雨を降らすんや、と誰かが云っていた。
それでレギュラー出演日は雨ばっかりだったような記憶があるが
実際は心が雨だったと云う方が合っているだろう。
・・ウケなかった。お客さんは多いのだが
いつもの顔ぶれではなく、この唄ならどや
ほならこれは、とゆーのがことごとくはずれるのである。
しまいにはパラパラの拍手までがとだえてきて
ついにある曲で、ジャラーンとギターのエンディングの後
しーんと静寂。
人生初のライブ拍手なしを経験した。
(・・出始めの頃、お客さんの喧噪うずまく中の演奏では
まるで戦っているような反応があった。
僕らの演奏が終わると、まばらな拍手とともに
お客さんの声も休憩するように静かになる。
また僕らが演奏を元気よく始めるとお客さんも
その音に負けじと話声のボルテージを上げる。
Bハウスは基本的に、うまくて手ごろな値段の料理が売りの酒場だった。
お客さんも「まあ良けりゃ聞いたろ。あかなんだら、聞けへんで~」
という感じだったのである
ライブが終わり、貰ったギャラを握りしめYくんと
桃谷の商店街を歩く頃にはもう頭は真っ白。
駅前のたしか谷中屋という飲み屋でジョッキを二人握りしめ
「どうしたらもっと聞いてもらえるんやろ~」とうつむくばかり。
でも根が阿呆やから、あれは何かの間違い、次こそ大喝采や~と
二人また桃谷に出撃する、そんな繰り替えしだったのだ。
しかし1~2年もすると、聞いてくれるお客さんがぼつぼつ現れ
「ジャニス、もう忘れよう」とか名物曲もできて来て
自信を持ち始めていた矢先だった。)
で、最悪に受けなかった9/1のソロライブ。
僕はヘコミ、店の中からは、ことさらコメントもなく
いつも励ましてくれる厨房の高仲くん(彼も唄ってた)も黙り込み
僕はただギャラをもらい、頭を下げ、すごすごと店を出た。
手にしてたギターD28は、近々後輩に売ることが決まってて
最後の使用だったのに、なんちゅう結果。
ギターケースがやたら重い。
パチンコ屋の店先のシャッターの前の
歩行者の雨靴で濡れそぼった鋪道に 酔いどれじいさんが
一人座り込みしゃがれた声で
「ずいばせん・・ずいばせん」とくりかえしつぶやいていた。
「誰にあやまっとんねん」と不機嫌につぶやいた僕は
まるで自分の姿を見てるようでたまらず
足早に桃谷駅の改札を通った。
飲み屋に向かう気もおこらなかった。
早く寝床で傷を舐め、眠ってしまいたかったのである。
けど、家に帰っても悔しさで眠れなかった。
・・ところが明け方 ふと本をめくっていて気になる言葉を見つけた。
大好きな詩人、鮎川信夫さんの対談集の中にあった言葉。
「大体辛いなんてことは、たいてい気のせいなんだよ。」
僕は明かりをつけ歌詞を書き始めた。すぐに最後まで書けた。
それが「フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト」だった。
「フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト」
詞/曲 ドクトルミキ (1989 9/2)
夢の終わりが来たのかな お前もヤキが回ったと
ついてない事ばかりさ このギターも人手に渡る
けれど俺は知っている みんな気のせいだってこと
あんたが辛いとしたら それはたいてい気のせいだって
フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト
灯りの下 小さな店
俺は唄うけど 誰も聞いてない
唄が終わっても 拍手も無い
けれどBaby どこかで誰かが聞いててくれるもの
床が傾いているよ 滑り落ちないで Baby
帰り道の濡れた舗道で 酔いどれ爺さん座り込み
道行く人みんなに 何か謝っている
けれど俺は知っている みんな気のせいだってこと
あんたが辛いとしたら それはたいてい気のせいだって
フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト
灯りの下 小さな店
俺は唄うけど 誰も聞いてない
唄が終わっても 拍手も無い
けれどBaby どこかで誰かが聞いててくれるもの
床が傾いているよ 滑り落ちないで Baby
床が傾いているよ 滑り落ちないで Baby
フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト
COPYRIGHT©DR.MIKI ALLRIGHTS RESERVED.
(権利者の許可なく歌詞、楽曲、の演奏・録音を禁じます。)
https://www.youtube.com/watch?v=NZN3wffUqis
https://www.youtube.com/watch?v=68aoivdBK9s
さびの部分最後の「床が傾いているよ」という所は
子供のころ行った遊園地の「びっくりハウス」に
錯角を利用して実は傾いているのに、真直ぐに見える床の部屋があり
ここに立った時の妙に苦しい感じを思い出して
ウケないのに唄い手が必死に踏ん張っている感じに例えてみた。
別にBハウスの床が傾いていた訳ではない。(^^;)
曲もすぐ出来た。
その頃心酔してたジョン・プラインの
「ドナルドとリディア」みたいなカントリーワルツの
リズムにして、もう明け方6時前だったが本気で唄った。
そして買ったばかりのヤマハの4チャンネルのMTRを
引っ張り出すとすぐ多重録音をしてみたのである。
これがD28の僕の手許における最後の仕事になった。
「ついてない事ばかりさ/このギターも人手に渡る」
も、本当のことだったのだ。
その後、僕はしばらくして
「フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト」を
Bハウスでも唄いだした。
地味な唄やから、お客さんの反応は大した事はなかったのだけど
厨房でいつも聞いててくれる高仲くんが
気に入ってカバーしてくれて そのことから
やはり店のスタッフで弾き語りの坂(ばん)君
店の弾き語りのエースだったA-Show君
広島から来てた横張登くんなど何人かの唄い手によって
唄ってもらえることになった。
みんな同じような境遇で唄ってたから、共感があったのだろう。
ただ、面白いのは最初の高仲くんのカバーが、
僕の原曲のワルツを4拍子のスローバラードでアレンジしていために
みんなはそっちのアレンジで唄い始めたことだった。
やがて高仲くんとウエイトレスの由巳ちゃんが結婚して
Bハウスでお祝パーティをした時
僕が唄ったのは「フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト」だった。
僕は趣味だった写真を二人のために撮り
作ったアルバムにこの唄の最初に書いた歌詞を貼付けた。
高仲くんや由巳ちゃんだけは聞いていてくれてる。
店のライブでの、僕の大事な心の支えの二人だったのだ。
唄うたいだったら解るだろう。
聞いて無い百人のお客さんより
聞いてくれる一人のお客さんのほうが嬉しい。
でもその一人を作るのは、良い唄を書きたい
書かねばという本人の意志の持続だ。
もう20年以上たってしまった。
最近またまた、あの頃のことを嫌でも思い出す事があったから
追憶にふけってしまったけれど
「フライデイ・ナイト、レイニィ・ナイト」も
古い唄なので毎回ライブで唄う訳ではない。
しかし今も唄ってみると、心はすぐさま蘇る。
今も無名な僕だけれど「希望をすてるな」と
あの頃の自分が必死に云うのである。
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「三樹ちゃん、お父ちゃんな
(↓インターネットより:夕映えの入道雲)
♪果てしのない夏♪
僕らの子供の頃 1960年代半ば。
まだ原子力発電も東海村で実験段階で
「原子力の平和利用」という言葉が使われていた。
クーラーも一部の喫茶店とか銀行に
水冷式の強力なやつがあったけど
電車にもバスにも冷房はなかった。
扇風機は値段が高く1万円くらいしてた気がする。
青い透明な羽根が回転し、音を立てて風を送っていた。
もちろん僕らはその前で「あああ~~~」
と声にアナログディレイをかけるのだった。
楽しみはときおり隣の喫茶店「タイガー」から
出前でとってもらう「みぞれ」だった。
手回しのかき氷機から降ってくる氷は、とてもふんわりしてて
夏の下町の小さな南極みたいだった。
家族4人で夢中でかき氷をたべると
4人とも頭がキーンとなって
つかのま冷え冷えとしてしまうのであった。
2軒ほど隣にあった信用金庫には
びっくりするほど涼しい(と思われた)
冷房がかかっていた。
目当ては中におかれた麦茶の出て来る機械。
小さな紙コップがそなえられてて
お客さんが無料で飲めるようにしてあった。
何回も入って飲むと行員さんに怒られた。
「ぼく どこの子や!」
と云われると赤面して
「隣の薬局の子・・」と正直に答えた。
空には巨大な入道雲がそびえ
僕は野球帽をかぶるように云われ
5才上の兄と八戸ノ里の布施市営プールに行ったものだ。
中で売ってた関東煮きが
プールで冷えたからだに、これまた美味しかった。
10円のソーダアイスは棒が2本ついてて
二つに分割できるようになってたが
割り方を誤ると片方がおっきくなっちゃって
兄弟喧嘩を誘発するのだった。
4人家族で眠る一階の8畳間は
香取線香が焚かれ、灯が消された。
暗がりの中で父が、まだ眠らぬ僕に
兵隊時代の思い出を低い声で話したりもした。
蚊取り線香と父の煙草の火が赤く点っていた。
気がつくと再び明るい日差しの朝が
高圧鉄塔の向こうの入道雲からやって来て
夏は子供の僕らに果てしなく続くと思われた。
人はどの時代にも精一杯生きていた。
夏はその全てが明るく照らされ
放置され 灼かれ 陰をつくり
今なお僕らを暑い陽炎の中に投げ入れる。
祖父と祖母。生駒の宝山寺にて。撮影:篠原広祐。
(2000年頃書いた文章です)
友部正人のCBSソニー時代のアルバム
「どうして旅に出なかったんだ」は、思い出深いアルバムだ。
たしかバックはスカイドック・ブルースバンドで
それまで友部正人はずっと、ほぼギター1本で録音してたから
アルバム全体のにぎやかさと
ラストの曲「ユミはねているよ」の静けさが特に印象深い。
何度レコードをかけても、ラストの「ユミはねているよ」が
あの時代の あるいは友部正人の青春の
エンディングテーマのように聞こえたものだった。
おととしの四月
神戸の「ナフシャ」で行われた友部正人のLIVEで
僕と石山君、スガハラジュテームの三人はPAの助手をさせてもらった。
初めて身近に友部正人本人と声を交わしたけれど、
静かなのにものスゴイ人だなと思ったりした。
今は唄の力を力ずくで行使しているというか
早く歌い終わってニューヨークへ飛んでいきたいというムードだった。
昔、初めて大阪へやって来たときとか
高岡で見た街のお祭り騒ぎを、ニューヨークでは
日々静かに味わっているんだろうなぁ。
中学生の頃、雨の降る日の薄青い室内で
友部正人の「にんじん」にレコードの針をおろした時の
あの一曲目の「ふーさん」の
ギターとハーモニカが忘れられない。
僕の歩く道は、知っている道の正反対にあるよ
と教えられた気がした。
雨だれの音や、沈黙に似た唄だった。
今はジャズギタリストになった橋本(藤本)裕や
中学からの友人の関口夫妻や石山君、スガハラジュテームとも
友部正人の唄をつながりとして、みんな輪を描いてきた気がする。
レッドベリーやウッディ・ガスリーや
ディランや、友部正人が所々立っている
草ぼうぼうの広野に
僕も双眼鏡とギターを手に立っていたいと思う。
◆DYLAN and ME◆
昔
NHKで東京の無名フォークシンガーのドキュメンタリーをやっていて
そのシンガーが「ディラン あんたの子供を身ごもった~」と唄っていた。
ディランは、ほっとき上手なボスだった。
もう何年も何年も音信不通になってるけど、今さら唄を聴かなくても
十分なほど知った気がするでっかい岩石か、地面のようだった。
高一の時、友達のお姉さんの恋人が
ディランのレコードを10枚程貸しててくれた。
オヤジが隠してた「インバーハウス」というウィスキーを
水道水で割ってグビグビ飲みながら、レコードを聴き
丁度「ハイウェイ61」の”ライク・ア・ローリングストーン”の
サビの所で酔いとショックがシンクロしてハイになったのを憶えている。
森のなかの大木がたおれて、そこから多くの植物が芽を出すように
様々な音楽がディランから生まれた。
友部正人はディランに会えるだろうか?
そういえば、今度日本に来るらしいね。ディランも老人になりつつある。
唄の王の今日の機嫌はどうなのだろう?
ディランはいつまで死と闘えるだろうか。
アメリカ人、ディラン。ディランには日本は無関係な土地であり
日本人はよけいに無関係だろう。
だがディランがディランであるように
君は君であり、僕は僕であれば良いのだ。
そして、ディランは唄とギターのあつかい方を
親方のように僕たちに示してくれた。
なんとよい日々だったろうか。
夏の真夜中に赤い煙草の火が点っている。
父は居間で一人の晩酌を終えてから
母と兄と僕が川の字で眠る八畳の間の
僕の隣りの布団に横たわるのが常だった。
今も僕は父に似て宵っ張りだが
大元の父も寝つきは悪く、寝煙草の癖があった。
兄がまだ小学校の低学年
五つ下の僕は五歳にも満たなかっただろう。
蚊取り線香が煙り
扇風機は風を送りながら首を振り
母と兄は寝息を立てていた。
「三樹ちゃん寝てないんか?」
「うん…」
「しゃあないなあ。なんか話ししたろか。」
「うん。」
「あれはお父ちゃんがまだ兵隊の頃やなあ。
お父ちゃんは友達の兵隊さんと二人
見渡す限りのひろーい草原の一本道を歩いてたんや。
月の明るい、風のある夜やったなあ。
ほんならな、前の方から長い髪の女の人が歩いて来たんや。」
僕は寝ながら父を見上げ
くわえ煙草で寝転んだ父は、天井を見ながら話していた。
父の呼吸に合わせて、闇の中で
赤い煙草の火が明るくなったり
暗くなったりした。
「お父ちゃんも友達も、なんやらゾーっとしたんや。
それでも2人とも固唾を飲んで
そのまま一本道を歩いて行った。
やがてお父ちゃんらと
その女の人は道を擦れ違ったんや。」
「それでどないしたん?」
僕の声は恐さにかすれてたのではないだろうか。
それにくらべ父の声は低く太かった。
「あんまり変な感じがすると
言葉が出えへんもんやねんなあ。
お父ちゃんと友達はそのまましばらく歩いたんや。」
「ほんでな、まるで申し合わせたように
お父ちゃんと友達は立ち止まって振り返ってしもたんや。
そしたらな、向こうの女の人も
立ち止まってこっを振り返ったんやで。」
「その時の女の人の顔が真っ白でなあ
お父ちゃんらまたゾーっとしてなあ。」
「ゆうれいやったん?」
「そんなことはないと思うんやけどな
あとで友達と言うたんは
あの女の人もほんまは、恐かったやろなあ…
いうことやねん。」
父は煙草を消し
あるいはもう一本喫ったのかもしれないが
僕はそれから固く目を閉じて
眠りに落ちたのだと思う。
父が低い声で話した夜の光景は
幼児だった僕の心に
月灯りの優しい色合いで描かれた
絵本のような怪談として
心に深く長く残ることとなった。
そして明くる朝は、蝉がやかましく哭く
真夏の一日に間違いなかった。
それは夏休みの宿題や
木曽福島への楽しい旅行や
どうしても枯らしてしまう
物干しのヒョウタンの観察日記に悩んだりする
あの懐かしい、永遠の夏休みだった。
◆生駒の宝山寺◆
(2007年8月2日に書く。ちょうど六年前の記事です。)
昨日の朝は母の事を考えていました。
母の最期になってしまった夜
まさか今夜とは思わず兄が帰り
見舞ってくれたバンド仲間の石山君も帰り
11時前でしたか気持ち良さそうに眠る
母の柔らかく温かい手を
僕はベッドの横に座りずっと握っていました。
子供の頃よく握った時と同じ柔らかさ温かさでした。
すると病室のドアが開き
若い二人の看護士さんが入って来て僕に頭を下げて
「ご臨終です。」と小声で云いました。
ナースステイションのモニターでは
もう母は逝っていたのでした。
母は僕に手を握られたまま旅立ちました。
2012年の11月27日
僕の誕生日のひと月あとの同じ日でした。
今も僕の頭は母の死を知っているけれど
心は認めてない気がします。
僕が18の時逝った父も
三年前85才で逝った母も
僕の心に住んでいます。
人が本当に死ぬときは
もう誰も覚えている人が居なく成った其の時なのではないかと
僕は思います。
(これは昭和40~42年頃のことです。
1965~1967年頃と云えば分かりやすいでしょうか。)
小学校の給食が嫌いだった。
コッペパンや食パンはいいにしても
脱脂粉乳の牛乳は一気飲みで流し込むしかなかった。
あと全校3000人分の児童の分を
バイキンマンUFOみたいな巨大鍋で
ボートのオールでかき混ぜて作る
くちゃくちゃの変な匂いのおかずが嫌いだった。
1年2年の頃、おかずを残すと5・6時間目が終わり
掃除が始まってもまだ食べるまで教室に残される。
Tという、ばあちゃん教諭が帰る時刻まで。
もう一人いつもおかずの食べられない女の子がいた。
色白のおとなしい女の子で、話したことは無かったが
理不尽ないじめに対する悲しみと怒りは共有してたと思う。
あの頃 たった一人の男の友達がいた。
僕も彼も妄想夢想癖が同一で
怪獣やプラモデルが大好きだった。
今思うと可笑しいけれど、二人は飛行機や!
ということになっており
僕らは双発のプロペラの一機ずつで
二人で肩を組み お昼休みの校庭を
ゆっくりとパトロールするのが楽しみだった。
「あ、へんなぶったいをはっけん」
「りょうかい せっきーん。」とか云いながら。
と、いうことは そういう日は難儀な給食を
こっそり便所に捨てるとか、机に押し込むとかして
なんとかやり過ごした昼休みだったのだろう。
その彼は「僕はしんぞうがわるいねん」
「3ねんせいになったらな、しゅじゅつすんねん。」
と僕にいつも云っていた。
「3ねんなんて、ものすごーさきのことやなあ」
「でもな ぼくしゅじゅつて、なんかこわいねん。」
「だいじょうぶなんちゃう~?」
二人はそんな事も語らいながら
肩を組んだのと別の片手の主翼をのばして
「ぶーううん」といいながら校庭をパトロールし続けた。
3年になって担任が少し若い30代の女の先生に代わり
給食を残しても、お小言だけに成りつつ在る頃
クラスの変わったあの飛行機のかたっぽ友達とは遊ばなくなった。
校舎は1・2年の木造の分校から鉄筋の新校舎に移り
友達も様がわり、でも相変わらずプラモデルと怪獣が
おとこのきずなの根本の日々だった。
そんなある日 彼が死んだという知らせを聞いた。
お葬式は新校舎の彼の教室だという。
僕は同じ組ではなかったので参列出来なかったんだと思う。
放課後の教室には祭壇が飾られ
黄色い菊の花があふれるほど飾られ
花びらがいっぱい床にこぼれ落ちていた。
ひとり立ち尽くしていた僕に
黒い服を着たお母さんが痛々しい笑みを浮かべて
「しのはらくんやね 仲良くしてくれてありがとうね。」
と云った。
お母さんの顔は今も覚えている。
でもあの友達の顔も
名前も、もう思い出せない。
僕の幼い心のフラスコは悲しいほど小さかった。
あの床にこぼれ落ちるほどの
たくさんの黄色い菊の花びらは
僕が始めて見た 人の死だった。
僕は意味が分からず そこから立ち去るしかなかった。
やがて高学年になると
自分も給食が嫌いな男の担任の先生と
愉快な友人達のおかげで学校は楽しくなった。
1・2年の頃、ばあちゃん教諭に
「こんなに給食を残す子は、大人になっても
なんにも食べらへん人間になるんやで!」
と云われたけど、今は何だって食べられる。
(脱脂粉乳は絶対買えへんけどね。
文部科学省の大臣 あれ飲んでみい~。)
ときおり朝
「しのはらくんはおとなになれてよかったなあ」
とあの友達に云われる気がする。
僕は何処へでも行き、好きな唄を唄い
君の分の世界も生きようと思う。
どんなにみにくいことがあったとしても
この世界は必ず美しい。
「汲み取りのおっちゃんや~」
「わ~い」
小学校2年の僕ら何人かの熱心な
汲み取りのおっちゃんフォロワーは
昼休みの汲み取り口に大集合するのだった。
ぼろい分校の汲み取り口は
恐怖の異次元の海の入り口だった。
まるでバルンガの分泌物の海のごとし。
(僕らのなんやけど。)
それを雄々しく、麦わら帽子にダボシャツにゴム長姿で
ザクの動力パイプみたいな、黒くてかっちょいいゴムホースを抱えて
『ズザザザー』とバキュームカーのタンクに吸い取って行く
汲み取りのおっちゃんは一部の男子のヒーローだった。
またあのバキュームタンクの形状が男子マインドをわしづかみ。
2~3人のおっちゃんの中の親方さんみたいな人が
タバコをくわえながら僕らをまぶしそうに見やり
「また来たんか、ぼんらは。」
みたいな顔で、渋い大人の表情を見せる。
普段、嫌いなバアちゃん先生の授業など
全く聞いてない僕もこの時はコーフンするのだ。
「なあなあ おっちゃん あんね もしも
こん中(汲み取り口)へ落ちたらどうなんの!?
くそーて死んでしまうのん!?」
普段、授業中絶対に質問なんかせえへん僕も
汲み取りのおっちゃんには、渾身の質問をしてしまうのだった。
するとおっちゃんはタバコの煙をゆっくり吐き
「そやなあ。まず窒息するやろな。」
「窒息っ!!!! かっちょえ~!!!」
居並ぶコアな汲み取りのおっちゃんフォロワーの児童たちは
心底どよめくのだった。
「くそーて死んでまう」と「窒息死」の
この子供と大人の余裕の違いのリアルさに
わしら一部の男子は身をよじり感動してしまうのだった。
いまだに「超ひも理論」だの「常温対消滅」だの
「半物質」だの「核融合反応」だのにうっとりしてしまう僕は
あの頃と全然変わっとらん。
あの頃の頭の中はガラモンやカネゴンや
ペギラやセミ人間や科学特捜隊の
ジェットビートルやシービュー号や
サンダーバード2号の事でいっぱい。
「なんでバルタン星人と
ケムール人の笑い声は似てるねんやろ?」
とか、「ジラースはえりまきとられたら
ゴジラに似てる気がするけど気のせい?」
とかそんな疑問でいっぱい。
やがて「窒息 窒息」と
小声で上気してつぶやく僕らに
汲み取りのおっちゃんらは
「ぼんらなあ、汲み取り口に落ちたらあかんで~」
と云いながらバキュームカーとともに
やはり雄々しく去って行くのだった。
それは幼年時代のまぶしい
ときめきの追憶のひとこまなのであった。