この絵本「ちよさん」は兄のところに長女が誕生した時に思い立ち書き始めたものです。
本来は口絵にあるように彩色をして、この世に一つだけの絵本として姪にいつか渡すつもりで
書き始めてはみたのですが、始めの1エピソードで彩色に息切れしてしまいまいました。
それでここにあるように鉛筆で書いた下書きを手作りで小さな絵本にまとめ
この物語のモデルになった母・千代に渡したものが元になっています。
この物語は母が僕の幼い頃からことあるごとに語って聴かせてくれた、母方の三村家の実話です。
ちょうどこの絵本の始めに出て来る母の姉、文子おばさんが2010年に亡くなった折りに法事で
親戚が集まる事もあり、頑張って手作りの製本をして従兄弟達に配りました。
子供の頃から回りの大人たちに「さん」ずけで呼ばれていた母・千代には
何か不思議なオーラがあったような気がします。
そして肝心の姪はもう大学を出て社会人になってしまいました。(^^;)
時の経つのは早く、いつかやがて姪も家族の歴史を受け継いで行くのだと思います。
見開きでアップしていますので下へスクロールしながら読んでみてくださいね。↓
「ちよさん」こと母・篠原千代の66才の頃の写真。
僕が天王寺公園で写しました。
僕の甥、母には二番目の孫の手をつないでおります。
母はこの写真が気に入っており、これが遺影になりました。
85歳で逝ったのですが、終生若々しくほがらかな人でした。
絵本のちよさんは眼鏡をかけて着物にエプロンですが、
これは僕の創作です。
昭和初期のイメージが中々つかめず、ましてやまだ幼かった姪に、今とは違う時代と思ってもらうためにそうしたのですが、「ちゃんと洋服着てたし、まだ眼鏡もかけてへんかったで!」と母からはクレームが入ってました。(^^;)
(↑上の写真は生駒・聖天寺の境内の祖父と祖母です。写真は僕の父が写したと思います。)
後年、僕の祖父・逸次(ちよさんのお父さんです。)は事業に成功、工業薬品問屋の店舗を生野区に構えます。この店舗が後に僕の実家となり、物語の中で一度禿げてしまった叔父が祖父の仕事を継ぎ
生野区の田島町に工場を建て社長になって、母は70歳までそこで事務をしておりました。
母は終生 親戚の皆に「ちよさん」、僕の従兄弟たちには「ちよ姉ちゃん」と呼ばれ愛されていました。この絵本の話を母はよく縫い物などしながら幼かった僕に時に笑いながら、涙ぐみながら話してくれたものです。母方の親戚が集まると祖父が修理して逆さまにかかっていた時計の話題でいつも盛上がっていたものですが、文字盤が逆さなので紙が貼って直してあったそうです。(^^;)
この祖父はまた強運な人で、Blog「掌の遠国」の6「生駒の聖天寺」にその事を載せましたので
読んで見てくださいね。
祖父の興した生野区の「三村商店」の店先にて。
後年、僕の実家の薬局になる家です。
絵本で髪が抜けてしまったトシ兄ちゃんの出征式の写真です。
ちなみにこの時は入営するために丸刈りにしております。(^^;)
下段中央の女性がトシ兄ちゃんのお嫁さんサヨさんで右隣がトシ兄ちゃん。
サヨさんの左が祖父・逸次。ちよさんのお父さんですね。
トシ兄ちゃんの右隣で赤ちゃんを抱いているのが祖母・静代。
ちよさんのお母さんでトシ兄ちゃんの毛糸の帽子に毛の生えるお守りを縫い付けた人です。
僕は今川のおばあちゃんと呼んでました。
その右後ろのネクタイの人が長男のシゲル兄ちゃん。
祖母が抱いているのはシゲル兄ちゃんの長男・ヒサオちゃんで祖母には初孫でした。
僕には従兄弟ですが今は70を越えて元気です。
母・千代の最期の夕方、病院に見舞ってくれたのを思い出します。
そして一番左端の眼鏡の少女が僕の母・千代「ちよさん」です。
この頃は勝山通りのプール学院の女学生でした。
隣の白いワンピースがフミコ姉ちゃん。近所で評判の美人で裏で、長靴工場をやっていた大石さん(シゲル兄ちゃんの右の人。)と結婚したのですが、後年友人に連れていかれた韓国料理店がその大石さんの工場の跡地で驚いた事があります。(しかも僕の元実家の裏やったし。(^^;)